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27-39 アキヒコ
ゆらゆらと、曖昧 に輪郭 をゆらめかせ、胸 まで食われた虎 が、また人の姿 に化けた。
片腕 だけ残った右手で、信太 が金の嘴 に触 れると、不死鳥 ははっとしたように、鯰 を突 っつくのをやめた。
「兄貴 、やっぱり無理やわ。こんなんやめて、もう帰ろ」
触 れられた信太 の手のひらに、頬 をすり寄 せるようにして、不死鳥 もまた寛太 に戻 った。
あちこち焼けこげた格好 で、髪 も乱 れ、まるで火事場 を突 っ切 ってきたみたいやった。
寛太 は必死で信太 の腕 を引 っ張 っていたけども、鯰 ががっちりくわえ込 んでて、びくともせえへん。まるで六甲 の岩肌 に挟 まれてるみたいや。
鯰 が咀嚼 するような、ものすごい音は、ずっと止 まずに聞こえてた。いったい何を噛 んでんのや。
「やめろ言うても、もう無理やなあ、寛太 。こう見えて、もう結構 食われとうで……」
皮肉 めかせて笑う信太 はぐったりしていた。顔色も蒼白 を通 り越 して紙のようやった。
いや、紙というより、漆喰 で塗 られた壁 のようやった。
信太 はもしかしたら、元は真っ白い壁 に描 かれた絵やったんやないか。
鯰 に命と霊力 を吸 い取 られ、信太 はまた元の、一枚 の絵に戻 ろうとしていた。
その、岩に描 かれた絵のような、信太 の手に触 れ、寛太 は見るからにわかるほど激 しく震 えていた。
「い……嫌 や。嫌 や。嫌 や。嫌 や……痛 いやろ、兄貴 」
涙 をぽろぽろこぼしながら、寛太 は信太 にすがりついていた。
その哀 れに打ちひしがれた背 を、信太 の手が、よしよしと、やんわり撫 でてやっている。
「いいや、大丈夫 や。もう、言うほど痛 くない。むしろ何にも感じんようになってきた」
寛太 を見つめる、信太 の目は虚 ろやった。
邪魔 が入らんようになり、鯰 はまた機嫌 を直したようや。
岩肌 にとりつく寛太 には目もくれず、鯰 はごくりという音とともに、信太 をまた少し、呑 み込 んだ。
深い底なしの沼 に、ゆっくり沈 む餌食 の虎 が、少しずつ消えていくかのようやった。
「嫌 や! 嫌 や、兄貴 、逝 かんといてくれ!」
火がついたように焦 り、信太 の肩 に縋 りつくようにして、寛太 は煤 で汚 れた頬 に、ぽろぽろ大粒 の涙 を流していた。
「来たらあかんて言うたやろ……なんで俺 の言うこときかれへんかったんや、寛太 」
寛太 の額 に頬 を寄 せて、信太 は片腕 だけでも、鳥をしっかり抱 いてやっていた。
寛太 はそれに寄 りすがる雛鳥 のように、信太 を食うてる岩肌 に、身をすり寄 せた。
「堪忍 や、兄貴 。でも、無理やわ、そんな……死なんといてくれ。置いていかんといて。死ぬんやったら俺 も、一緒 につれていって……」
自分もその岩に、共に呑 まれようというように、寛太 は六甲 の岩肌 に身を寄 せたが、鯰 はもう、なりを潜 めて、もう元のとおりの岩山に、戻 ろうとしていた。
儀式 は無事に完遂 されたらしい。
山は供物 を受け入れ、再 び長い眠 りに落ちようとしてる。
うとうとと、まどろみながら、虎 の最後の一片 を、食うてしまえばそれで終わりや。
「無理やな、それは」
苦笑 して、寛太 は抱 き寄 せた寛太 のくしゃくしゃになった赤い髪 を撫 でてやっていた。
「お前は不死鳥 なんやろ。不死鳥 は死なれへん。死ねるようならお前は、最初から存在 せえへんかった鳥や。神戸 が喚 んだんは、ただの鳥やのうて、フェニックスなんやしな……寛太 。そうでないなら……お前は、存在 せえへんのや。この手も……命も……魂 も、お前には、なかったことに、なるんやで……?」
じっと見つめて、信太 は寛太 の白い手を握 り、不死鳥 の赤い目を見つめた。
強く言い聞かせるような、信じる目やった。
「不死鳥 やろ、寛太 。いつまでも……ぼやっと霞 んだみたいなままでは、あかんのやで。お前はあいつとは、別モンやないか。怜司 の真似 すんのは、いいかげんやめろ」
真正面 から言い聞かせられて、寛太 は震 えたようやった。
ただ荒 い呼吸 に胸 を喘 がせるだけで、なんも答えられへん。
「やめてええねん。お前が好きや。お前らしくしたらええねん。お前は神戸 の……俺 の不死鳥 なんやろ?」
再 び寛太 の腕 を引き、抱 き寄 せる仕草 をする信太 の頬 に、びしっと細かい亀裂 が走った。
崩 れ落 ちる壁 が、そこに描 かれた絵を道連れにするように。
「嫌 やぁ! 信太 ……!」
悲鳴そのものの声で、寛太 は叫 び、逝 こうとする虎 を現世 に引 き留 めようとでもいうんか、強い手で、信太 の腕 を握 りしめていた。
「キスしてくれ寛太 。俺 はもう逝 く」
囁 く声で、虎 が強請 ると、寛太 は少しためらいがちに、信太 の唇 に、唇 を寄 せた。
虎 が寛太 にキスしてやってんのは、よう見たけども、その逆 は、これが始めてやったんかもしれへん。
尽 きようとしてる命の火を、口移 しに分 け与 えようとするような、甘 くはない、神聖 なような口付けやった。
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