743 / 928

27-47 アキヒコ

 おかんの大きい目に、大粒(おおつぶ)の涙(なみだ)が浮(う)いてて、それがぽろぽと堰(せき)を切ったように流れ、白い頬(ほお)を濡(ぬ)らした。  大崎(おおさき)先生や蔦子(つたこ)さんは、それから目を背(そむ)けていた。  他(ほか)の人らもそうやったやろう。  泣いているおかんを、じっと見つめているのは、俺と、おとんだけやった。 「嫌(いや)や。龍(りゅう)に食われるために生まれたんやおへんえ。この子は画家(がか)さんになるんや。なりたいもんになって、幸せに生きていくんやから。暁彦(あきひこ)……!」  縋(すが)り付(つ)く目でおかんは俺を見て、息を喘(あえ)がせた。 「嫌(いや)やとお言い。あんたも、ちゃんとはっきり、嫌(いや)やとお言いやす。皆(みな)に義理立(ぎりだ)てすることはないんえ。あんたの人生なんやから。あんたのしたいように、したらええのよ」  したいように、すればええよと言いつつ、決まった答えを促(うなが)すような、おかんの口調に、俺もしばらく言葉に詰(つ)まった。  おかんはたぶん、俺のことを大事に思ってくれてんのやろ。  可愛(かわい)い我(わ)が子(こ)や。死なんといてくれって、そう願ってくれてんのやろ。  その、おかんを裏切(うらぎ)るような返事は、しばらく喉(のど)につっかえて、そう簡単(かんたん)には出て来てくれへんかった。  でも、いつかは、言わんとあかん。  後で思えば、俺はこの時、そう長い時間は黙(だま)り込(こ)んではおらんかったわ。 「おかん、俺は斎主(さいしゅ)をやりたい。自分で決めたんや。これは俺の仕事なんや。行ってくるわ。まだ死ぬとは決まってへん。泣(な)くんは、俺がほんまに死んだ時にして」  俺がそう言うと、おかんは泣き顔のまま、すごくびっくりしたようやった。  ぽろぽろと光る涙(なみだ)が、ふたつみっつ、宝石(ほうせき)みたいにこぼれ落ちていった。 「アキちゃん……」  泣(な)き崩(くず)れる声で、そう呼(よ)んで、おかんは両手で顔を覆(おお)い、なぜかおとんの胸(むね)に崩(くず)れ落(お)ちていた。  なんで俺やないんやろ?  まあいい。まあ、それはいい。それはいいとして、……や。  そんな疑問(ぎもん)を頭にぐるぐるさせつつ、俺はとうとう、最後の戦いへと赴(おもむ)く時を迎(むか)えようとしていた。  霊振会(れいしんかい)の皆(みな)さんも、よく秋津(あきつ)家の身内だけの家族劇場(げきじょう)に付き合(お)うてくれはった。  しかしもう、時間切れや。これ以上ゆっくり親子の別れを惜(お)しんでる場合やない。  ほんま言うたら、俺はちょっと、自分はほんまに死ぬんかなって不思議(ふしぎ)に思ってた。絶対(ぜったい)死ぬという実感(じっかん)はなかった。  それこそ未経験者(けいけんしゃ)ならではか。  龍(りゅう)とサシで渡(わた)り合(お)うたら、絶対(ぜったい)に死ぬようなもんなんか、案外なんとかなんのとちゃうかっていう、楽天的(らくてんてき)すぎる感覚が、俺の心のどこかにあった。  もうここまで来たら、なるようになれっていう、居直(いなお)りもあった。  生きるか死ぬかやない。やるか、やらんかや。  俺は、自分がやるって、この仕事を引き受けたんや。  生きようが死のうが、やることをやるだけや。突(つ)き進(すす)め。  なんや、そういう境地(きょうち)になってな。もう、悩(なや)むの飽(あ)きてん。疲(つか)れたわ。  それまでに、色々ぎょうさん苦悩(くのう)しすぎた。もう今さら悩(なや)むことが特にない。  あとはもう、ただ行くだけや。レッツ・ゴーやでアキちゃん。 「俺も連れてってもらうで、アキちゃん」  そうやった。俺は一番怖(こわ)い真打(しんう)ちの蛇(へび)のことを、おかんに血迷(ちまよ)うあまり、うっかり失念(しつねん)していた。  亨(とおる)はもちろん、ずっとそこに居(お)った。  煤(すす)で汚(よご)れたナマズ髭(ひげ)も、生憎(あいにく)そのまんまやった。  その顔のままで、亨(とおる)はものすご決意を秘(ひ)めたシリアスな表情(ひょうじょう)をして、俺んとこに来た。  その顔から目を背(そむ)けて立ち、俺はぶるぶる震(ふる)えた。  たぶん武者震(むしゃぶる)いやった。俺も怖(こわ)ないわけやないんや。  怖(こわ)いのは怖(こわ)いんや。ただそれに慣(な)れただけ。  そやかて基本(きほん)、震(ふる)えが止まらへん。 「顔拭(ふ)け、亨(とおる)。変な模様(もよう)ついてるで」  ナマズ髭(ひげ)のマヌケ面(づら)をなるべく見いひんようにして、俺は亨(とおる)に頼(たの)んだ。  えっ、なに? とか言うて、亨(とおる)は顔をゴシゴシしていたが、そんなもんで落ちる煤(すす)やなかった。ただ真っ黒になるだけや。  しょうがないんで、俺は自分の着ていた斎服(さいふく)の袖(そで)で、亨(とおる)の顔をゴシゴシ拭(ふ)いてやった。  最後の時に見る亨(とおる)の顔が、ナマズ髭(ひげ)のまんまやったら、あんまりやろ。俺、吹(ふ)いてまうわ。  そしてそれが自分の人生の最期(さいご)やったら、あまりにも虚(むな)しいわ。  美しい顔でいろ、亨(とおる)。  ゴシゴシしてやって、黒絹(ぎぬ)の袖(そで)の中からまた現(あらわ)れた亨(とおる)の白い顔は、珠(たま)のようやった。  美しい蛇(へび)や。  その白い頬(ほお)にまた触(ふ)れると、俺の心もぐらぐら揺(ゆ)らいだ。  ずっと亨(とおる)と一緒(いっしょ)に居(お)りたい。ずっと一緒(いっしょ)に。 「アキちゃん、なんやかんや済(す)んで帰ってきたらなあ、俺をホテルに置いてけぼりにしようとした罪(つみ)は、全身全霊(ぜんしんぜんれい)で償(つぐな)ってもらうからな」  じっとりと恨(うら)んだ目で言う亨(とおる)の話は、今はそれを咎(とが)めへんという意味やった。  優(やさ)しい蛇(へび)やなあ、お前は。  今ここで半殺(はんごろ)しにしたいところなんやろうけどなあ。許(ゆる)してくれるんか。  さすがは水地(みずち)亨(とおる)大明神(だいみょうじん)の大御心(おおみこころ)や。 「堪忍(かんにん)してくれ、亨(とおる)」

ともだちにシェアしよう!