752 / 928

27-56 アキヒコ

 あの予知(よち)は竜太郎(りゅうたろう)にとっては、水煙(すいえん)の介添(かいぞ)えがあっても溺(おぼ)れたような、難儀(なんぎ)な仕事や。  しかも一遍(いっぺん)溺(おぼ)れ死んでるのに。  もう二度とするなって俺は言うたのに。  あいつは全然、俺の言うことをきいてへんかったんやな!  竜太郎(りゅうたろう)!!  失敗したらどないするつもりや。今度は俺かて助けにいかれへんのやで。ほんまに死んで、それっきりなんやで!  ……そやけど、竜太郎(りゅうたろう)は成功した。そういうことやった。  なにしろ未来は変わったんやから。着てるものが違(ちが)う程度(ていど)の、ほんの些細(ささい)な違(ちが)いかもしれへんけど、でも、とにかく変わった。  これはまだ俺が、視(み)たことのないコースや。  どないなるか分からん、まっさらの未来やで。 「先輩(せんぱい)……」  ヘタってて物も言わんかったはずの瑞希(みずき)が、急に俺を呼(よ)んだ。  見ればもう、狗神(いぬがみ)ではなく、人の姿(すがた)をしていた。俺のよく知ってる、いつも大学でよく会うたような、ありきたりの学生みたいな格好(かっこう)や。  瑞希(みずき)はその、いかにも日常(にちじょう)そのものの姿(すがた)で、海を指さした。  それに促(うなが)されて見た先には、到底(とうてい)、日常的(にちじょうてき)ではないもんが見えた。  海が立ち上がって見えた。  壁(かべ)のような大波が、ものすごい速さでこっちに押(お)し寄(よ)せて来ていた。  なにあれ。津波(つなみ)や。  俺はぼけっとそう思った。それ以上のことは、なにも考えられんかった。  これからどうすればいいのかも。考えられへん。  俺にはのたうつ龍(りゅう)が見えた。押(お)し寄(よ)せる大波と二重写(にじゅううつ)しで。  遠目(とおめ)にも明らかな、巨大(きょだい)な龍(りゅう)やった。  東海(トムヘ)の王や。  龍(りゅう)は独(ひと)りでやってくるのではなかった。  数知れないほどの、海の眷属(けんぞく)を引き連れていた。  人魚(にんぎょ)のような、鰭(ひれ)のあるもの。  深海からやってきたような、怪物(かいぶつ)的なもの。  陸(おか)でしか生きたことのない俺たちには、見当もつかんような有象無象(うぞうむぞう)の神々や霊(れい)、聖(せい)でも邪(じゃ)でもなく、その両方でもある者たちを、逆巻(さかま)く波(なみ)に紛(まぎ)れさせ、従(したが)えていた。  まさしく王と呼(よ)ばれるに相応(ふさわ)しい、威風堂々(いふうどうどう)の風格(ふうかく)やった。あまりに巨大(きょだい)や。  竜宮城(りゅうぐうじょう)の王様って、あんな感じなんかなと、俺はぼんやり思った。  あまりにも現実(げんじつ)離(ばな)れしていた。  あんなもんがこの世に居(お)るとは。  俺にはとても抑(おさ)えきれへん。まさかこの世に、鯰(なまず)より強い神が居(お)るとは。  俺みたいな、ちっぽけな人間が、止めて止められるようなもんやあらへんわ。  それが覡(げき)としての俺の直感(ちょっかん)やったんやろうか。  俺は呆然(ぼうぜん)と無抵抗(むていこう)やった。  あれは平伏(ひれふ)して待つしかないものやと思った。  逃(に)げて逃(に)げられるようなもんやない。戦って、勝てるようなもんではないんや。  祈(いの)るしかない。  そうやった、俺はそのためにここに来たんや。  どうか皆(みな)を殺さんといてください。俺だけにして。  俺は生(い)け贄(にえ)としてここに来ました。どうかそれに免(めん)じて、他(ほか)の皆(みな)は助けてやってくれ。  お願いします。  俺はとっさの無意識(むいしき)で、心の中でそう祈(いの)ってた。  襲(おそ)い来る波(なみ)に向かって、そう呼(よ)びかけていた。  ただ呆然(ぼうぜん)と立ちつくすだけやったけど、心は平伏(ひれふ)していた。  龍(りゅう)に? わからへん。  たぶん、この世界の天地(すべて)に。 「逃(に)げろ、皆(みな)。俺に付き合うことはない。もう主(あるじ)でも式(しき)でもない。どこへでも好きなところへ行け。俺についてくるな」  俺は水煙(すいえん)を手放(てばな)した。なぜか無意識(むいしき)に言葉が口を衝(つ)いて出た。  そうするつもりでいたかどうか、記憶(きおく)にはない。  深く考えることもなく、気がついたらそう言うててん。  俺は自分の式神(しきがみ)を全部解放(かいほう)したらしい。  皆(みな)びっくりしていた。  水煙(すいえん)も、朧(おぼろ)も、瑞希(みずき)も。ものすごショックを受けたようやった。  皆(みな)、うんともすんとも言わんかった。  だた、ぷつりと切れた何かの絆(きずな)が、心のどこかで確(たし)かに感じられた。 「亨(とおる)、お前もどっか行け。逃(に)げて生(い)き延(の)びろ。まだ間に合う」  逃(に)げて逃(に)げられんことはないやろ。  ただの人間と違(ちが)うて、こいつら妖怪(ようかい)なんやから。  めちゃめちゃ急げば時速百キロくらいで走れるかもしれへんやん。  朧(おぼろ)なんか飛べるんやから。  俺は逃(に)げへん。俺が逃(に)げたら、助からんかもしれへん。神戸(こうべ)は。  神戸(こうべ)?  ほんま言うたらそんなこと、俺にはどうでもよかった。  どうでもいいとすら思ってなかった。何も考えてへんかった。  見ると亨(とおる)が呆然(ぼうぜん)と俺を見ていた。  青白いけど、綺麗(きれい)な顔やった。  亨(とおる)の背後(はいご)に神戸(こうべ)の街が見えた。  見えたって、肉眼(にくがん)で見たんではなかったんかもしれへん。  いくらなんでも人間の目で、街を一望(いちぼう)するのは無理や。  でも、今、すごく遠いところにいるはずの、俺の知ってる人らの顔が、ひとりひとり見えたような気がした。  俺のおかんは無事(ぶじ)やろか。蔦子(つたこ)さんは。竜太郎(りゅうたろう)は。  大崎(おおさき)先生は。新開(しんかい)師匠(ししょう)は。小夜子(さよこ)さんは。  中西(なかにし)さんと神楽(かぐら)さんは。  霊振会(れいしんかい)の皆(みな)は。  ヴィラ北野のフロントのお姉(ねえ)さんは。朝飯屋(あさめしや)の店主は。  前にこの近所の公園で犬の散歩させてた女子高生は。  俺の知ってるあの人たちは。ちらっと顔を合わせただけの、あの人やこの人は。  今どこで何をしてるんやろう。生きてるやろうか。皆(みな)、無事(ぶじ)なんか。  俺が死んで助かるもんなら、俺は一歩も逃(に)げられへんかった。  俺はおかんに生きといてほしかった。亨(とおる)も、水煙(すいえん)も、他(ほか)の皆(みな)も。  俺が死んで、何とかなるんやなったら、何とかしたいと思った。  助けたかったんや。守りたいと思った。  守らなあかん。  俺は三都の巫覡(ふげき)の王で、秋津(あきつ)の末代(まつだい)、暁彦(あきひこ)やから。  神よ。  それは、たまたま俺が着ていた、秋津(あきつ)の文様の斎服(さいふく)に、たまたま宿(やど)った、代々(だいだい)の秋津(あきつ)の巫覡(ふげき)の想(おも)いやったかもしれへん。  それとも俺自身の想(おも)いか。どっちにしろ同じことや。  俺はその血筋(ちすじ)に連(つら)なる者やった。  神よ。恐(かしこ)み恐(かしこみ)み白(もお)す。  祈(いの)り方なんか俺は知らん。でも聞いてください。  この街には俺の大事(だいじ)な人たちが居(お)るんや。俺に皆(みな)を救わせて。  俺の命ひとつで取引しようなんて、図々(ずうずう)しいのは分かってる。  でも、そこを何とか。俺のわがままを、聞いてはもらえませんでしょうか。  何とぞひとつ、よろしゅうお頼(たの)み申(もう)します。  俺は祈(いの)った。全身全霊(ぜんしんぜんれい)で。  波は俺を呑(の)んだ。あっという間(ま)の出来事(できごと)やった。  そしてそれからどうなったか。  俺にはそれを語ることはできひん。  なぜかって。  俺は死んだからや。  死んだ。  本間暁彦(ほんまあきひこ)、享年(きょうねん)21歳(さい)。  まだまだ夏の気配(けはい)の残る、神戸(こうべ)の海でのことやった。 ――第27話 おわり――

ともだちにシェアしよう!