786 / 928

28-34 トオル

 俺はもう、帰ってええの? 出町(でまち)の家に戻(もど)れるんか?  アキちゃんと二人、おてて繋(つな)いで戻(もど)ってええの?  これでもう、ハッピーエンドか……?  そんな日が、ほんまに来るやなんて。  俺、どないしよ。なんかホッとしてもうて、幸せすぎて泣けて、アキちゃんの背中(せなか)が滲(にじ)んで見えへん。おかしいな、海の中やのに、泣けるんや。  熱い涙(なみだ)をポロポロこぼすうち、俺は少しずつ、白く輝(かがや)くエア様ではなく、いつもの水地(みずち)亨(とおる)に戻(もど)ってきていた。  当社比(とうしゃひ)百パーセントの美貌(びぼう)でしかないけど。アキちゃん。俺はこれでええやろか。  お前の、何でもないただの、可愛(かわい)いツレの白蛇(しろへび)ちゃんでも、愛してくれるか?  そう思って見上げたアキちゃんの筆(ふで)が、最後の一筆(いっぴつ)を描(か)き上げ、ふうっと息を吹(ふ)きかけると、東海(トムヘ)の王が開眼(かいがん)した。  青い龍(りゅう)の目によう映(は)える、琥珀(こはく)のような強い眼力(がんりき)のある目がふたつ、ぱっちりと開いて、海底を見つめた。  歓声(かんせい)のような声を人魚たちが上げた。  ずうっと怒(おこ)り、苛立(いらだ)ち、嘆(なげ)きながらのたうっていた主人のことは、人魚の姉ちゃん達にとっても、悲しみの種(たね)やったんやろう。  アキちゃんは、人魚にめちゃめちゃモテた。うわーっとピラニア並(な)みに群(むら)がってきた人魚に、アキちゃんは次から次へとキスされた。しかもマウス・ツー・マウスや。  ちょっと待てや、俺の男に何をするんや、この魚どもが!  それは俺のや。アキちゃんにキスするのは、絶対(ぜったい)無敵(むてき)で天下無双(むそう)ヒロインである、俺の役目(やくめ)やないか!  人魚をかき分け、アキちゃんと俺は抱(だ)き合おうともがいたが、全然手が届(とど)かへん。  俺はマジで焦(あせ)っとったけど、アキちゃんは笑(わろ)うてた。  アキちゃんが笑(ろ)うてる。ずっと苦(くる)しく悩(なや)む顔やったアキちゃんが、笑(わろ)うてるわ。  俺はそれを見上げ、また泣いてた。  良かったな、アキちゃん。良かったな、って。  俺を見守っていた骨(ほね)たちは、いつのまにか消えていた。  俺のことを、詰(なじ)ることもなく、責(せ)めることもなく、皆(みんな)、音もなく静かに身を引いて、消えていってもうた。  それにも俺は泣けた。俺はずうっと、一人でこの世をさまよってきたつもりでおったけど、ほんまは数え切れへんような人の愛に、支(ささ)えられて生きてたんやろうな。  アキちゃんは、その最後で、最新のひとりや。もう二度と更新(こうしん)されることがない、永遠の運命の相手やねん。 「アキちゃん」 「亨(とおる)」  俺らはまた、お互(たが)いを愛(いと)しく見つめ合うことができた。熱い愛に満ちた瞳(ひとみ)で。  ラブシーンやな! ここからラブシーンや。  抱(だ)きおうてキスして、亨(とおる)、愛してる。もうお前を一生ずっと永遠に絶対何があろうと決して離(はな)さへん、てアキちゃんが言うんや。  さあどうぞ! 言うて! 抱(だ)いて! アキちゃん!! 今すぐどうぞ!  そう思った矢先(やさき)やった。  ドッカーンて、恐(おそ)ろしいような水柱(みずばしら)が立った。  海底から、天を衝(つ)く勢いで、あべのハルカスが激的(げきてき)にリフトオフした。  東海(トムヘ)の王や。天に昇(のぼ)ったんや。  昇竜(しょうりゅう)やなあ、吉兆(きっちょう)や。  蔦子(つたこ)さんの予知(よち)の通りやわ。  良かったなあ、やけど、俺らは水柱(みずばしら)に呑(の)まれ、一気に海上の空中まで吹っ飛(ふっと)ばされた。  人魚も、鯛(たい)も平目(ひらめ)も、エビもカニも、クラゲもクラーケンも吹(ふ)っ飛(と)ばされた。  知らんけど、吹っ飛んでて見てへんのやけど、おとんと朧(おぼろ)も、水煙(すいえん)も、たぶん吹っ飛ばされたはずや。  たーまやーって、花火みたいに、もうすっかり夜になってもうた神戸の空には、大きな月が出ていて、ふっくらと笑(わろ)うてるような満月やったんや。  それを背景(はいけい)にして、俺らは吹っ飛(ふっと)んでいた。  アキちゃん。チューは⁉︎︎ チューはどうなんのや。  空中ではチューはでけへん。アキちゃん飛ばれへんのやし。ただ落ちるだけ。  俺はとっさに蝶(ちょう)に変転(へんてん)し、怜司(れいじ)兄さんは龍(りゅう)に変転(へんてん)した。  それで、左手におとん、右足にジュニアをひっ掴(つか)み、助けたものの、水煙(すいえん)は落とした。わざとかな? 無理やっただけかな? わざとかな?  水煙(すいえん)! て、おとんとジュニアがハモって叫(さけ)んだ。  それに俺も朧(おぼろ)もムッとしたけど、大丈夫(だいじょうぶ)。水煙(すいえん)は無事(ぶじ)や。あいつは海の中のほうが平気なぐらいや。  すぐにぷかっと浮(う)いてきて、水煙(すいえん)は長くたなびく蛇体(じゃたい)を波間(なみま)にうねらせ、天に昇(のぼ)っていく東海(トムヘ)の王を見上げていた。  月を目指すように飛ぶ龍(りゅう)の、巨大(きょだい)やった体が小さくなり、手のひらに乗るぐらいに見えて、やがて夜空に消えていく有様(ありさま)を、水煙(すいえん)は月明かりを浴びながら、ずっと見ていた。  俺らは黙(だま)って、それを宙(ちゅう)から見ていた。  なんや、良かったなあ、ああもうこれでハッピーエンドや。お疲れ様!  打ち上げで、カラオケ行こか、酒飲もうか、みたいな、そんなこと言うてやれる雰囲気(ふんいき)ではなかった。  波間(なみま)に漂(ただよ)う水煙(すいえん)は、美しかった。  さながら、たった今、月から舞(ま)い降りたばかりのような、神々(こうごう)しい姿(すがた)に見えた。  そうやけど、あいつはもう月には昇(のぼ)れへん。  地上で起こったなんやかんやで、穢(けが)れてもうたし。それに帰る気もなかった。

ともだちにシェアしよう!