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28-35 トオル
でももう、行くところもない。そういうもののように水煙 は見えて、俺は急に、心配になってもうた。
それで蝶 の群 れやった俺は、ひらひらとはためき、波間 に漂 っている水煙 の方へと飛んでいった。
「帰ろか、水煙 。出町 の家へ。長い戦いやったなあ。さすが俺らのアキちゃんや。これでハッピーエンドや。めでたしめでたしやんな?」
蝶 のまま、水煙 にまとわりつくように飛んで、俺は声でない声で、水煙 を励 ました。
何を励 ますようなことがあんのか。
でも水煙 は、今にも消え入 りそうに見えたんや。
「お前のアキちゃんや……亨 」
水煙 はぽつりと、俺にそう言うた。
えっ。そうやけど。何、当たり前のこと言うとんのや。
お前ちょっと変やで、水煙 。そんなん、やめといてくれ。
そう思うてる俺に、水煙 はにっこり微笑 んだ。
「おおきに、ありがとう。お前のおかげで、暁彦 は救 われた。お前と、朧 と……」
水煙 は空を見上げて、アキちゃんとおとんを掴 んで飛んでいる、影法師 のような黒い龍 を探 す目をした。
「あいつが居 れば、安心や。先代 のほうも、ジュニアのほうも。ええ連 れ合 いを見つけたな」
目を細めて言う水煙 は、悲しそうやったわ。
「何言うてんのや。京都に帰って、また喧嘩 の続きしようや」
アキちゃんは俺のもんや、お前は死ねって、ドツき合おうや。
俺はほんまにそう望 んで、水煙 を口説 いてた。
水煙 はそういう俺を見て、ちらりと笑った。
「アホやからやな」
俺がお人好 しやと言いたいんやな。
そやな。そうかもしれへんのやけど、なんでお前は、もう一緒 には帰らへんみたいな顔をするんや。
そんな顔すな。そんなん、誰 も望 んでへん。
アキちゃんのおとんを斬 ってもうた事を気にしてんのか?
あんなん事故 や。俺を守ろうとしてくれたんやろ? お前は悪くない。
おとんには、ごめんなあ、斬 れた? わざとやないし、堪忍 やでーって言うときゃええやん。
もう、怪我 もくっついたんやし、大団円 やないか水煙 。
大団円 やろ水煙 。大団円 なんや。
そうやって言え水煙 !
「見ろ、亨 。神戸 の街が、あんなんなってもうた」
水煙 が指 さす神戸 の市街地 が燃 えていた。
津波 は引いていったものの、一旦 壊 れた街が元に戻 るわけやない。
地震 で壊 れた家や、その後に出た火事で焼けている家は、相変 わらずそのままや。
それでも死んだはずの人らは、かなり助かったはずや。
霊振会 は奮闘 したし、鯰 はまた長い眠 りに就 かせた。
不死鳥 は神戸 の空を飛び回って、再生 の涙 を振 りまいたのやし、海神 かて無条件 降伏 で、秋津 家の完全試合 や。
そうやろ水煙 。俺らはもう、これ以上ないほど、ようやったんや。
できる限 りのことをした。もう、十分やろ。
俺らにできることはもうない。そうやろ?
「いいや。まだやれる事がある」
アキちゃんを、呼 んで来てくれと、水煙 は俺に頼 んだ。
わかった。呼 んでくる。変な気起こすんやないで。
お前も出町 に連れて帰って、その口にカレーをスプーンで突 っ込 んでやるんやからな、水煙 。
カレー食うまで許 さへん。分かってんのやろな。
俺は水煙 を振 り返 り、振 り返 りしながら、アキちゃんを呼 びに戻 った。
水煙 が呼 んでるでって、俺はそれだけアキちゃんに伝 えた。
アキちゃんは、困 ったような顔をした。
俺に悪いと思ったんか。せっかく大仕事を終えて、まだチューもしてへんもんな。
それは後でもええわ。水煙 、変やで。早 う行ってやろ。
そう急 かす俺に、アキちゃんは変な顔をしたけども、否 やはないようやった。
アキちゃんを乗せて飛ぶことは、俺にはでけへん。結局 、怜司 兄さんに連 れてってもらうしかなく、全員体制 で戻 る羽目 になった。
ほんま言うたらアキちゃんを、水煙 と二人 っきりにしてやったほうが良かったんかもしれへんのやけど。
そんな気遣 いは内心 にあるものの、それとは真逆 の状況 になってもうて、水煙 には辛 かったかもしれへん。
そやけど、あいつは何も言わへんかった。
アキちゃんにただ、青い絵筆 を差し出しただけや。
それにも蜻蛉 の紋 が白抜 きで入っていて、ちょうど小学生が図工 の時間に使うような、水彩 用の絵筆 に似 てた。
「アキちゃん。これ、やるわ。これでな、まだ何事 もなかった時の神戸 の街並 みを、お前は描 けるか?」
水煙 は、波間 に漂 いながら、アキちゃんにそう尋 ねた。
描 けへんわけあらへんわ。アキちゃんに描 かれへんモンはない。
いっぺん見たことがあるもんやったら確実 に大丈夫 、楽勝 や。
「描 けるけど、どこにや」
戸惑 う顔で絵筆 を受け取り、アキちゃんは水煙 が手を伸 ばして撫 でる、神戸 の夜景 を一緒 に眺 めた。
「空中 に? 描 けって?」
つまり、壊滅 してる神戸 の風景を上書 きしろて言うてんのか?
そんなことできるんか?
まあ、できるやろうなあ。俺のツレ、天才絵師 やから。
描 ける描 ける。任 せとけ。
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