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29-01 アキヒコ
おとんの話は、嘘 でもハッタリでもなかった。
俺のおかん、秋津 登与 は、自称 十八歳 、現実には多分 、詳 しく言うたらあかんような年齢 で、懐妊 していた。
そのせいか……というか、もう何のせいやら、何が何やら俺には分からんのやけど、おかんの悪阻 はひどくて、ほとんど寝込 んだような半病人 の状態になり、嵐山 の家で毎日臥 せっていたんや。
蜜柑(みかん)しか喉 を通らへんていうて、毎日、びっくりするような数の蜜柑 ばっかり食うてる。
それで平気なんか、死なへんのかおかんはと、俺には生きた心地 がしいひん日々が続き、嵐山 の実家へ、蜜柑 持って詣 でる毎日が続いた。
蜜柑 持ってくるんは、何も俺だけやなかった。
近所のおばちゃんとか、日頃 付き合いのある政治家のおっさんとか、蔦子 さんとか、大崎 先生とか、お前は誰 やねんていう金持ちそうなおっさんとか、おっさんとか、おっさんが、次から次へと蜜柑 持って来るもんやから、俺ん家 はちょっとした、蜜柑 農家みたいになったわ。
玄関 くぐると、すでに蜜柑 の匂 いがしている。
それを全部、おかんが食うてんのかと思うと、恐 ろしいような気がしたが、おかんの身の回りの世話 を一手 に引き受けている、椿 の精 の舞 ちゃんが、奥様 はどなたにもお会いしとうないと言うてはります、と可愛 い顔で言うて、ほんまに誰 一人、おかんの寝 てる奥 の部屋には、立ち入らせへんかった。
そうして、三ヶ月が過ぎ……。
三ヶ月しか過ぎてへん。
おかんがいつから妊娠 してたんか知らんのやけど。
産声 が聞こえた。
俺とおとんが、実家の炬燵 に当たりながら、そこらへんにあった蜜柑 を食うともなく食うとった時、何の前触 れもなく、唐突 にものすごい大音量の産声 が聞こえた。
赤ん坊 の声やわ。
俺は腰 抜 けそうになり、おとんもびっくりしたようやった。
神戸 の例の出来事 から、三ヶ月、世の中は十一月の末 になっていた。
その年は、冬の足が早 うてな、これといった暖房 器具 のないうちの実家は、すでにものすご寒かった。
火鉢 と、炬燵 ぐらいしかないんや。
それで不自由を感じたことがなかったんやけど、出町 のマンションに住み慣れると、時代が止まってるような家やと思えた。
「い、今の何や……」
わかってるくせに、俺は自分と同じ顔してる、おとんに聞いた。
おとんは家着 の着物を着てて、顔こそ俺と瓜 二つやけど、昭和初期をそのまんま引きずった生活をしていた。
おかんが、おとんは必ず帰ると信じて、ずっと蔵 にしまっておいたという、結城 とか、大島紬 を着てるんや。
その袖 に、腕 をしまったポーズで、おとんは何故 か天井 裏 を見上げた。
だだっ広い、うちの座敷 には、俺とおとんと、炬燵 と火鉢 しかいいひん。
「どっちやった?」
おとんが天井 に向かって尋 ねると、コホン、と、小さな咳払 いの音がした。
「若君 でございます!」
めっちゃ取り澄 ました作り声が、ひっそりと答えた。
「えっ、あれ何や⁉︎ 何がおるんや、おとん」
びっくりしてもうて、俺は炬燵 で中腰 のまま、おとんに聞いた。
「何がって、鼠 やろ。天井 裏 には大抵 おるわ。それより、生まれたようやな。やっぱり男の子やったか。お登与 の言うたとおりやで」
しみじみ感心 したふうに、おとんはおかんを褒 めた。
そしてまた、剥 いてあった蜜柑 を食うてた。
食うてる場合か! いつの間 に、おかんは産気 づいたんや。
行かんでええのか? 医者は? 救急車は? 呼 ばんで大丈夫 なんか?
「落ち着けジュニア。お前の子でもないのに、何をそうオタオタしてんのや。産屋 のことは、お登与 に任 しとき。舞 かておるのやし、案 ずることはない」
もぐもぐと蜜柑 を噛 んでから、おとんは言うた。
「水煙 を呼 ばなあかんな」
「え、なんで……?」
俺はすっかりパニクっていて、何で水煙 を呼 ぶのか、見当 もつかへんかった。
おとんは笑って、炬燵 の上の菓子 鉢 に積み上げられている、まだ丸いままの蜜柑 をとり、軽く放り投げてから受け取って、にこにことした。
「蜜柑 太郎 に名前をつけてもらわなあかんからなあ?」
蜜柑 太郎 。
それが俺の、二十一歳 年下の弟に、おとんがつけていた渾名 やってん。
ああ。そうや。うちの代々の男子には、水煙 が名前をつける仕来 りや。
たぶん、誰 を暁彦 にして、誰 をそうしないかを、水煙 が見極 めてきたんやろう。
うちの系図 には代々、似たような名前の男が繰 り返し繰 り返し出てくる。
水煙 は、名前を考えるのが面倒 やったに違 いない。
なぜなら、子供 の名前は、暁彦 でなければ、誕生月 によってほぼ決まっていたからや。
今は十一月。おとんは蜜柑 を菓子 鉢 に戻 して、炬燵 から出ると、よいしょと立ち上がった。
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