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29-02 アキヒコ
「ま、弓彦 やろな。霜月 やしな」
なんで十一月生まれやと弓彦 になるんか。
それには特に理由がないみたいや。
水煙 が最初に適当 に名付けた、秋津 家に生まれた一人目の十一月生まれの男が、弓彦 やったせいや。
その慣習 を破 って、違 う名前をもらえるのは、存命 の親族に同じ名を持つ者がおって、名前がカブってまう時だけで、そういう場合は、カブってる連中に適当 に付ける名前一覧 の上の方から、適当 に名前が選ばれる。
うちにとって、いや、水煙 にとっては、意味のある名は暁彦 だけで、他は適当 でよかったんやろな。
別に名前で偉 うなったり、賢 くなったり、丈夫 になるわけやない。適当 でええんやというのが、水煙 の考えやったけど、あいにく、秋津 家ではずっと、名は体を表 わしてきた。
十一月生まれの男は代々、弓の名手 や。今この時代に、それがどんだけ役に立つ技 なのか、全然わからんのやけど、とにかくそういうものらしい。
「蔵 から弓出してこなあかんなあ。なあ?」
おとんが立ったまま天井 を見上げて言うと、またさっきの甲高 い作り声が、ハイ、左様 でこざいますね、と相槌 を打っていた。
「見に行こか、アキちゃん」
まだ中腰 のままの俺に、おとんは顎 で差 し招 いて、おかんの寝 ている座敷 へ行こうと誘 った。
そやけど俺は固まってもうてて、立ち上がることもできひんかった。
長かった、俺の一人 っ子 時代が、終わろうとしてる。
こんな日が来るとは、夢 にも思わんかった。
弟欲 しいなあって、おかんに駄々 こねて見せたことが、子供 の頃 には何度もあったが、ごめん。あんなん嘘 やった。
俺は兄弟なんかいらん。おかんの息子 は俺ひとりで十分や。
俺からおかんを半分奪 う、いや、ひょっとしたら、全部奪 うような赤 ん坊 が、うちに来るやなんて、絶叫 や。
無理無理。そんな生活に俺は耐 えられへんのやから。
そういう顔で、無言で固まっている俺に、おとんはさすがに焦 ってきたようや。
「アキちゃん、どないしたんや。お前の弟やで。よかったなあ! ……よかった、やろ?」
腕組 みしたまま、おとんは俺の顔を覗 き込 むように、身を屈 めた。
よかった……こと……ない。
俺、無理。弟なんて、会いたない。
もう帰るわ。出町 の家に帰って、もう二度とここへは来ないことにする。
弟には一生会わへん。
もし弟が、お兄 ちゃんどこに居 るんて聞いたら、その人は神戸 で龍 に食われて死んだて言うといてくれ、おとん!
でも、もちろん、俺は死んでない。
霜月 、十一月。俺は京都にいてて、普通 に生きてる。
それまでの人生の続きに戻 って、それまでと変わらない、美大四回生の毎日を生きていた。
とりあえず、蜜柑 太郎 の現実 から逃 れるために、話を一気にあの日の神戸 に戻 そう。
俺は亨 と、神戸 にいた。
天に昇 る龍 を見送り、あやうく自害 しかけた水煙 を救い……まあ、救ったのは俺やのうておとんや。
蜜柑 太郎 のことを言うたら、水煙 が急に、生きる気力を取 り戻 して、助かったんやったよな。
……って、あかん! 蜜柑 太郎 のことは忘 れなあかん! 今はその話やない。
神戸 は救われた。水煙 の魔法 で、全壊 していた建物も、半壊 していた家々も、ほとんど全部しゃきっと立ち直り、不死鳥 によって癒 やされたお陰 で、死傷者 の人数も、ずいぶん少なくて済 んだ。
それでもゼロではない。あの地震 、鯰 が起こした災害 を、まるっきり無しにすることは、俺にも誰 にもできひんかった。
それはもう、しょうがないことや。
誰 にも知られることはのうても、大勢 が命を落とす大災害 になるところやったのを、ちょっとした地震 程度 に収 めることができたのは、快挙 やった。
俺はヴァチカンに感謝 された。感謝 状 もろた。
あと、洗礼名 ももろたけど、俺は秋津 のアキちゃんや。名前はそれ一個 で足りる。
そやから丁重 に辞退 した。
死んだら聖人 にしたるって言うてもろたけど、それも辞退 した。
当分、俺には死ぬ予定はない。
結局、俺がヴァチカンから貰 うたもんは感謝 状 だけや。
それと、あと、俺の新しい友達 の、神楽 遥 。
神楽 さんが俺にとって何の収穫 なのか、さっぱり分からんのやけど、とにかく、神楽 さんとの縁 は、あの地獄 そのものやった夏の出来事 が残していってくれた成果 のひとつやった。
街が蘇 り、朧 が正気に返ったんで、ヴィラ北野 に閉 じ込 められていた一般人 の方々を、無事に助け出すことができた。
朧 さえ正気なら、それは別に、大した仕事やない。
ホテルにいって、鍵 開けるだけのことやねんから。
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