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29-06 アキヒコ

 軽快(けいかい)で明るい、(まい)ちゃんの声がして、()(そで)で何かを()っこしている赤い姿(すがた)が、おかんの背後(はいご)廊下(ろうか)の、薄暗(うすぐら)いほうからやってくるのが見えた。  蜜柑(みかん)太郎(たろう)や……!  無理(むり)や俺。とてもやないけど対面(たいめん)できひん。  俺がお(にい)ちゃんやで、コンニチワーとか言うんか。無理(むり)見当(けんとう)つかへん。  思わずぎゅっと目をつぶり、精神的(せいしんてき)には脱兎(だっと)していた俺をよそに、おとんはのんきな歓声(かんせい)をあげていた。 「おお、ええな。大きい子や。二人目(ふたりめ)はお前に()てるんやないか、お登与(とよ)」 「どっちに()てても同じようなもんどす」  同じ顔やもんな! でも俺は見いひんで。絶対(ぜったい)に目は開けへん。  そういう気持ちでうつむいていたが、そんな俺を笑うように、あははと小さい笑い声がした。  小さい子供(こども)みたいな声やねん。(あか)(ぼう)やない。  俺は顔を上げて、おとんが(いだ)いてる(あか)(ぼう)を見た。  うちの家では(めずら)しい、癖毛(くせげ)の子やった。  黒髪(くろかみ)が、ラファエロの()く天使みたいにくるくる()いてて、白いぷっくりした(ほお)や、(ひい)でた(ひたい)(みだ)れかかっている。  俺は弟いうたら、竜太郎(りゅうたろう)みたいなのを想像(そうぞう)していた。無意識(むいしき)に。  可愛(かわい)いけども、ちょっと遠い。  それはあいつが従兄弟(いとこ)やからやな。  弟は、何というか、もっと血が近い。なんせ同じおとんとおかんから生まれてる。考えようによっては、おとんよりも、おかんよりも、俺と同じ血を持った人間や。  もし俺に子供(こども)ができたとしても、その子よりも、兄弟のほうが血が近いかもしれへんのや。  双子(ふたご)のように、と言うには、うちの弟と俺は顔も()てへん。  俺はよう、目つきが(こわ)いとか、(おこ)ってるとか言われてまうけど、弟は、おとんが言うように、おかんに()たらしい。  いつも(うす)っすら笑うてるような、愛嬌(あいきょう)のある顔立ちで、どことなくミステリアスな目をしてる。  何も知らんチビのはずやのに、まるで何もかも、お見通しみたいにな。 「アキちゃん」  おとんに()っこされながら、弟が突然(とつぜん)言うた。  弟はどう見ても、一(さい)か二(さい)ぐらいに見えた。  子供(こども)(とし)のことは、俺にはよう分からんけど、これは絶対(ぜったい)にさっき生まれたという(あか)(ぼう)ではない。  おかんがどっかから(ひろ)うてきた子なんか? 「アキちゃん」  また言うて、蜜柑(みかん)太郎(たろう)はけらけらと、小さい手を()って(わろ)うた。  そして、俺に向かって、()っこしろというふうに身を乗り出し、()いてるおとんの手から落ちそうになった。 「お(にい)ちゃんが分かりますのやなあ。かしこい子ぉやわ、ユミちゃんは」  にこにこ言うてるおかんの中でも、蜜柑(みかん)太郎(たろう)弓彦(ゆみひこ)で決まりのようやった。  そこまで決まってるんなら、一体何のための名付け親なんや、水煙(すいえん)は。 「()っこしてやっておくれやす、アキちゃん。この世でたった二人きりの兄弟え。これから手を(たずさ)えて、秋津(あきつ)の家を守っていく、あんたの右腕(みぎうで)なんやから」  やんわりと重いことを言うて、おかんは俺に蜜柑(みかん)太郎(たろう)()けという。  こんなチビ()いたことない。犬ぐらいやで。  チワワよりは大きいが、秋田犬よりは小さい。そんなぐらいのサイズ感や。  無理無理(むりむり)。俺は()っこなんかしいひんて、()(ごし)やった俺のほうに、まあ、(いだ)いてみ、と言うて、おとんが蜜柑(みかん)太郎(たろう)()()けてきた。  うわあ。()せって、おとん! 落としたらどないすんねん。  でも(こば)むわけにもいかへん。余計(よけい)、落っことしてしまう。  それで、しょうがなく、俺は蜜柑(みかん)太郎(たろう)()っこした。  ()()(やわ)らかい感触(かんしょく)がくすぐったいような頭から、なんや、蜜柑(みかん)みたいな(にお)いする。  お前、ほんまに蜜柑(みかん)太郎(たろう)やな……。 「アキちゃん」  また(しゃべ)って、蜜柑(みかん)太郎(たろう)は俺の着てるセーターを(つか)み、(はら)でも()ってんのか、ちゅうちゅうと自分の小さい指を()うていた。  その、重くもない体重と、(ぬく)もりと、ふにゃっとした(やわ)い体の感触(かんしょく)を、両腕(りょううで)(おぼ)えて、俺は何や、変な気分やった。  これ。俺の弟なんやなあ。変やわあ。  俺ずっと、一人(ひとり)()やったのに。  おかんをずっと(ひと)()め。それを(だれ)かと分けるやなんて、絶対(ぜったい)ありえんと思うてきたのに、ぎゅっと()きついてくる弟を()っこしてると、これは俺が絶対(ぜったい)守ってやらなあかんもんやと思えた。 「お前も、こんなんやったわ、アキちゃん。()っこしたことないけど」  おとんが俺を見て、(じつ)に残念そうに言うた。 「そら、そうどすやろ。屋根裏(やねうら)にお(かく)れになってましたんやもんなあ。()っこできるわけあらしまへん」  すごい(おどろ)のある口調で、おかんがイケズ言うてた。  これはあかん、薮蛇(やぶへび)やって、おとんは(あせ)った顔で苦笑(くしょう)していた。  ()っこされたまま、弟はすうすう寝息(ねいき)を立て始めている。  その(ねむ)ってる顔が、めちゃめちゃ可愛(かわい)い、まるで天使や。  いや、天人(てんじん)か?  この世のものとは思えん可愛(かわい)さや。  これは。もしや。近づいたらあかん(けい)のアレか?

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