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29-09 アキヒコ
「いいえ。とんでもない。無事 に産みおおせて、一仕事 終えましたよって、ずっと気になっていた別の仕事にかかるだけどす」
朗 らかに言うて、おかんは迅速 に仕事した。
言うべきことをさっさと言うた。
三ヶ月ものたくたしていた俺とは大違 いやわ。
「お兄ちゃん。自分のために生きる時どす。暁彦 と、弓彦 と、二人 の子をもうけて、秋津 の家はとりあえず安泰 や。暁彦 は立派 に当主 を勤 めますやろ。もう家に縛 られることはないんどす。思うように生きていっておくれやす」
お前の描 きたい絵を描 いて。
そう言うおかんは、まるで今も秋津 の家長 のような顔をしていた。
家の者 、皆 のことを、思うてる目や。
「アキちゃん……朧 やろ?」
茂 ちゃんが、心配げに身を揉 んで、ちょろっと言うたいらん話に、おとんはじろりと怖 い目をした。
「黙 っとれ茂 。お前に言われとうないわ」
ぷい、と顔を背 けて、おとんは座敷 を出て行こうとしてた。
逃 げんのか、おとん。敵前 逃亡 。なんで逃 げるんや。
それでも追いすがるおかん。手加減 なしの猛追撃 や。
「お前の他 には何もいらんて、言うてやったらどないです? 今やもう、誰 憚 ることがありますやろか。水煙 かてもう、あかんとは言いまへんやろう? 一緒 に居 って、楽 に息ができる相手と、お兄ちゃんかて居 たいですやろ」
美しい、雪に埋 もれる赤い椿 の柄 を染 め上 げた訪問着 に身を包 み、おかんは襖 を掴 んでるおとんのほうを、真 っ直 ぐ見つめた。
おかんはなんでもお見通 し。それが今に始まった事やなかったんやろか。
ぐるりと俺らのほうを振 り向 いて見回し、鯉 が跳 ねて跳 ねて困 ってる秋尾 さんの気まずさでいっぱいの、盥 の水でびしょびしょなってる顔を、おとんは最後にじいっと見た。
「なんで、今、言うんや。お前らは。弓彦 が生まれて、ああ良かったなあいうて、身内 で言祝 ぎ合うべき時や。なんで言い争 うてんのや。俺のことなんか放っとけ。水煙 を呼 んでくるわ」
開けっ放しやった襖 をピシャーンと閉 めて、おとんは蔵 へ行くようやった。
すたすたと大股 でいく足音が遠ざかり、だんだん聞こえなくなるまで、座敷 の一同 は黙 ってそれを聞いていた。
「もう、強情 やねんから!」
もうおとんには聞こえへんていう確信 が湧 いてから、おかんは急に堰 を切ったような早口で言うた。
「そや、そや。アキちゃんは強情 や。せっかく登与 ちゃんが気ぃきかせて、言うてやったのにな!」
大崎 先生が、いかにもヨイショする声で、おかんに迎合 した。
あんたは一体、誰 の味方 や。あんだけおとんに媚 びとったやないか。
「朧 はどこにおるんや」
大崎 先生は急に真面目 な顔になり、俺に話を向けて来た。
えっ俺? 俺もこの会話の頭数 に入ってたんや。
俺は抱 っこしてた弟を揺 すり上 げ、ええと、と口籠 った。
もちろん、朧 がどこに居 るか知らんからやった。
電話するな言われたし、電話もしてへん。
後で言うけどな、俺かてこの三ヶ月、暇 やった訳 やない。
おとんと家で蜜柑 食うてただけやないんや。
忙 しいて、朧 のことまで手が回らんかっただけや。
と、いうんが言 い訳 で、やっぱり、アレかな。
おとんと朧 をくっつけてもうて、おかんはどないなるんやという事が、一番のネックやったかな。
俺はそれを心配して、おかんが大事で、この問題から目を背 けてきたんやろうな。
おとんの思い出話に見 え隠 れする、朧 なる者の気配 を感じても、それを追求 した事がない。
「あいつは、えーと……こ、神戸 や」
「大雑把 やなあ。お前の式 なんやろ? しっかり管理せなあかんやないか」
眉 をひそめて大崎 先生が言うた。
良かった、美少年で。説教 されても、あんまり怖 ない。
「あいつを一人 で置いといたらあかんで。寂 しなったらロクなこと考えへん奴 なんやで。退屈 しのぎに人を食うしな。あることないこと巷 に吹聴 して、人が慌 てるのを笑 うて見てるような、性悪 な妖怪 なんやで」
それが朧 の正体 と、大崎 先生は言うていた。
「そんなことおへんへ。怜司 はええ子どす。お兄ちゃんが側 に居 る限 りは、歌 うとたり、面白 おかしい話して、笑 うてるだけで満足してるような、慎 ましい子どす」
慎 ましいのか?
とても俺の知ってる朧 とは思えへん。
酒飲んで怒鳴 って、煙草 吸 うて、片 っ端 からイケメンを食う、キスばっかしてる物 の怪 や。
そやけど、二人 っきりで酒飲んで、抱 き合 うて戯 れ合 うてる時のあいつは、確 かに可愛 い。優 しいし、美しい神や。
海底で、おとんと抱 き合 うてた時の朧 の顔を思い出し、俺は切 なくなってた。
あれが、おとんの知ってる普通 の朧 で、あいつはおとんさえ居 れば、いつもああいう顔してるんかな。
それは、そのほうがええ。そうではない時のあいつの、いろんな表情 を思い出すと、俺もそう思う。
「アキちゃん。朧 と連絡 は取れまへんのんか?」
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