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29-11 アキヒコ

 そうして、おとんの心にも(きず)が残ったんやろう。  その傷口(きずぐち)は、まだ()えてへん。  そう簡単(かんたん)に治るもんやあらへん。あの龍王(りゅうおう)でさえ、何百年も前の(きず)にいまだに苦しんでたのに、おとんの(きず)はほんの何十年か前のできたもんや。  まだ今も(うず)くぐらいの(いた)みや。  神を(おに)に変えるほどの、(いた)みや。  そやから、あの神戸(こうべ)の海で、おとんは水煙(すいえん)()られた。  (おに)になってるって、()られるような羽目(はめ)に。  その(きず)(いや)してやれるんは、俺か? おかんか? 蜜柑(みかん)太郎(たろう)か?  確かに弟は可愛(かわい)い。心の()えになるやろう。  そうやけど、他に心から(のぞ)む相手がいながら、それを(こば)んで生きてたら、おとんは幸せになれるやろうか。  心から(わろ)うて、好きな絵を、思いっきり()けるようになるか?  そう(なや)む俺は、ものすご(にが)い顔してたんかもしれへん。  おかんの目が、ものすご冷たかった。 「何をそう(だま)ってますのんや。未練(みれん)がましい。男の子ですやろ。きっぱり身を引いて、親孝行(おやこうこう)をしなはれ!」  ピシャーンみたいに頭ごなしに言われたで!  おかん、ちゃうやん。俺が(なや)んでたんは、そういう事と(ちが)うで。  俺のこと何やと思うてんのや。俺の何を知ってんのや。そんなケダモノを見るような目で見るのはやめてくれ。 「ああ、アキちゃんも前はこんなに可愛(かわい)かったのに。すうすう()てなあ。ほんま天使(てんし)みたいやこと! それが今ではもう、(へび)やら何やらと夜な夜ないやらしいことして……そんなふうになってしまうんやもの。ユミちゃんはずうっと、可愛(かわい)い時のままでいておくれやす」  俺が()っこしてる弟に、おかんは哀切(あいせつ)(いの)って、俺の手から弓彦(ゆみひこ)()き取った。  おかんが()くと、弓彦(ゆみひこ)は目を()まし、指を(くわ)えたまま、にこにこと笑った。  その目は、おかんが好きでたまらんと言うてるようやった。  俺は今、完全に、おかんのナンバーワンの()を追われた。  (ころ)がり落ちていく自分を感じた。  うわああああ! 死ぬううう!  ……とは、ならへんかったわ。何でやろ。不思議(ふしぎ)やわ。  おかん無しには生きていかれへん。ずっとそう思ってたのに。  いざ、おかんの手を(はな)れてみると、俺は平気(へいき)やった。  手を(はな)したところで、おかんと俺の(あいだ)には、切っても切れへん(きずな)があった。  親子(おやこ)やからかな。  俺はたぶん、今までに、おかんに十分愛されたんやろう。もう、一生分の愛が、俺の心の中にストックされてる。そやから不安になる必要がないんや。 「可愛(かわい)いな」  おかんが()っこしてる弟が、幼児(ようじ)らしい喃語(なんご)でブツブツ言うのを聞いて、俺は(わろ)うた。  おかんもそれを見て、にっこりしていた。 「そうどすやろ。アキちゃんの小さい(ころ)を思い出しますわ。あんたは(あま)えたでなあ、なかなか大きいならへんし、苦労しましたえ。ちっとも育たへんし。小学校上げるのに十六年ほどかかりましたわ」  えっ。ちょっと待って。  おかんいまサラッと言うたけど。俺、何歳(なんさい)? 二十一やんな?  ちゃうの⁉︎ 何歳(さい)⁉︎ いつ生まれ⁉︎  そういえば弓彦(ゆみひこ)何歳(なんさい)⁉︎  こいつ今、新生児(しんせいじ)? さっき生まれたんやったよな?  でももう(しゃべ)ってんで。  どう見ても二、三(さい)や。  って、あれ? さっき俺、どう見ても一(さい)か二(さい)て思わへんかった?  (そだ)ってる⁉︎ 俺が()っこしてる間に⁉︎  どうりで段々(だんだん)(おも)なってる気がしたわけやわ。  初め、ゆったり着てた幼児(ようじ)用の白い着物も、ぱっつんぱっつんなってもうてる。 「弓彦(ゆみひこ)……」  どうなってんのやろうって、俺は弟の顔を(のぞ)()んでみた。  そうしたら、丸い可愛(かわい)い目と、目が()うて、弓彦(ゆみひこ)も俺をじいっと見た。 「お兄たん」  満面(まんめん)の笑みで、弓彦(ゆみひこ)はそう言うて、また俺に()っこされたいみたいに、こっちに向かって小さい両腕(りょううで)をひろげた。  あかん。可愛(かわい)い。悩殺(のうさつ)や。 「あらまあ、あんたもお兄ちゃん子か? しょうがないなあ、ユミちゃんは。お兄ちゃんに()いてもらいよし」  (だれ)が他にお兄ちゃん子なんや。  おかんは自虐(じぎゃく)っぽく言うて、弓彦(ゆみひこ)をまた俺の手に返してきた。  それがぎゅっと()きついてくる。  それを()き返すと、弟はまるで自分の体の一部みたいで、ものすごく、(いと)おしかった。  俺はずっと、勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)のことを、弟みたいやと思うてた。  俺は一人っ子やったしな、ほんまの弟がおったことがなかったせいや。  今やと、あいつを弟やとは思わんかったやろうな。  俺はあいつを、(たん)に他人として、好きやった。ただの他人で、血を分けた弟とは(ちご)うてる。  弓彦(ゆみひこ)()たいとは思わへん。  チビやからかもしれへんけど、たぶん、こいつが育っても、ずっとそうやろう。  弟はそういう劣情(れつじょう)対象(たいしょう)(ちが)うんや。俺にとってはそうや。  俺がどんなに()れてても、おかんが結局(けっきょく)一度として、アキちゃん()よかとは言わんかったのと同じで、俺も、ユミちゃんに変な気は起こらへん。

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