804 / 928

29-12 アキヒコ

 こいつも将来(しょうらい)、誰(だれ)かと心を通(かよ)わすことがあるんかもしれへん。  そういう時がまだ想像(そうぞう)もつかへんのやけど、そうなる時のために、こいつの心の中の一番いい場所は、とっておかなあかんのや。  幸せな一生を送れるように。  運命(うんめい)の相手(あいて)のための指定席(していせき)はもう、予約(よやく)されてて座(すわ)れへんのや。俺でも誰(だれ)でも。  こいつが自分で出会う誰(だれ)かが、突然(とつぜん)座(すわ)ってくるまで。  だけどあいつは、俺に座(すわ)ってほしいって。  勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)の暗い目を思い出し、俺は弓彦(ゆみひこ)を抱(だ)きながら、暗い目をしたんかもしれへん。  弓彦(ゆみひこ)は敏感(びんかん)やった。  ぎゅうっと眉(まゆ)寄(よ)せた悲しい顔になり、急(きゅう)に泣き出したんや。 「お兄(にい)たん」  ジタバタと手足を暴(あば)れさせながら、弓彦(ゆみひこ)はグズりだした。  まるで焼き餅(やきもち)焼いてるみたいな怒(おこ)り方やった。  こいつ、俺の心が読めてんのやないか。  そんな気がふっとして、俺は慌(あわ)てて弓彦(ゆみひこ)をあやしながら、変な汗(あせ)かいてた。  滅多(めった)なこと考えたらあかんな。無心無心(むしんむしん)。  こいつも秋津(あきつ)の子やで。ただの幼児(ようじ)やないんやからな。  ていうか、ただの幼児(ようじ)では全然(ぜんぜん)ない。こいつ一体、何歳(なんさい)や。 「おかん、これほんまにさっき生まれたんか?」  最初に聞けっていうようなことを、俺はやっとおかんに聞いた。 「そうどすえ。うちももう歳(とし)やさかい、アキちゃんの時みたいに長く孕(はら)むのはくたびれます。お母さんしんどいさかい、早(はよ)う大きいなってなあ、て頼(たの)んでましたら、五ヶ月ほどで出てきてくれましたわ。親孝行(おやこうこう)な子やわぁ、ユミちゃんは。可愛(かわい)い可愛(かわい)い、ほんまにええ子や」  泣いてる弟のほっぺたをプニりながら、おかんは歌うように言うて、弓彦(ゆみひこ)のご機嫌(きげん)をとってやってた。  おかん。できる親孝行(おやこうこう)にも、人間には限界(げんかい)てもんがある。  五ヶ月しか胎(はら)に居(い)いひんと、さっき生まれたのに、もう三歳(さい)ぐらいになってるて、そんな親孝行(おやこうこう)聞いたことない。  普通(ふつう)の家では、子供(こども)が三歳(さい)になるには、三年かかるんや!  こんな調子(ちょうし)でどんどん大きいなって、あっという間(ま)にジジイになったら、どないするんや。  せっかく生まれたのに、おかんのせいで、あっという間(ま)に死んだら、どないする。  弓彦(ゆみひこ)が可哀想(かわいそう)やわ。  そんな俺の気持ちをお見通(みとお)しやったんか、おかんはうふふと笑(わろ)うた。 「心配おへん。この子はな、時を操(あやつ)れるだけなんどす。赤ん坊(あかんぼう)にかてなれると思いますえ。子供(こども)になったり、大人になったりできますのや」  メルモちゃんかよ! そういう話があるんや、手塚(てづか)治虫(おさむ)さんの名作(めいさく)漫画(まんが)でな、キャンディー食うたら大人になったり子供(こども)になったりする女の子の話やねん。  そんなこと、ほんまにあるんやなあ。  そんな弟、どないして育てたらええんや⁉︎  今日は二歳(さい)で、明日は五歳(さい)で、明後日(あさって)にはまた赤ん坊(あかんぼう)になってましたって?  そんな子やと、幼稚園(ようちえん)にも小学校にも行かせてやられへん。  だって何年生の教室に行けばええんや?  大変や……。うちの子育て。俺の子ちゃうけど……。 「まあ、今のところは、これぐらいの歳(とし)までしか大きいはなられへんようどすなあ。まだ未熟(みじゅく)なんどすやろ。赤ちゃんやもんなあ?」  首を傾(かし)げて、おかんは弓彦(ゆみひこ)に優(やさ)しく言うた。  グズってたのが、だいぶ泣き止んできたところやった。 「どうするかは、追い追い考えましょ。アキちゃんの時かて、何とかなったんやもの。案(あん)ずるより産(う)むが易(やす)しどす」  もう産(う)んでるけどな。  大丈夫(だいじょうぶ)かな。うちの弟。  皆(みな)の周(まわ)りにも、毎日歳(とし)ちがうみたいな子おっても、いじめんといてな。俺の弟やねん。  俺が心配になりながら、また弓彦(ゆみひこ)を抱(だ)っこしてると、蜜柑(みかん)太郎(たろう)はまた、きゃあきゃあと嬉(うれ)しそうな声をあげた。  水煙(すいえん)が、戻(もど)ってきたからやった。  亨(とおる)が押(お)す車椅子(くるまいす)に乗(の)って、何か長い巻物(まきもの)みたいなのを沢山(たくさん)抱(かか)えた水煙(すいえん)が、こっちの座敷(ざしき)に来るところやった。  あの神戸(こうべ)の朝からこっち、水煙(すいえん)は太刀(たち)やったり、キラキラした顔の青い神さんやったりした。  それでも時々、俺が描(か)いた絵の美青年(ぶせいねん)やったりもした。  今日はそれや。  上品(じょうひん)な、つんと澄(す)ました表情に、潤(うる)んだような鋭(するど)い目をしてる。  肩(かた)に触(ふ)れる長い黒髪(くろかみ)を片側(かたがわ)に流して、車椅子(くるまいす)に座(すわ)ってる姿(すがた)は、いつもの青い時ほどの神々(こうごう)しさはないものの、十分、人を二度三度と振り向(ふりむ)かせる力を持った美貌(びぼう)やった。 「生まれたんか」  びっくりと、呆(あき)れたの中間(ちゅうかん)の声で、水煙(すいえん)が弓彦(ゆみひこ)を見て言うた。  まだ生まれるとは思ってなかったんやな。  そりゃまあ、五ヶ月しか経(た)ってへんのやったら、今日生まれるとは思わへんよな。  水煙(すいえん)には未来を予知(よち)する力はないんやから。 「今(いま)しがた、急(きゅう)に産気(さんけ)づいてもうて。元気な男の子どす」  おかんは水煙(すいえん)に、俺の抱(だ)いてる弓彦(ゆみひこ)を示(しめ)した。 「弓彦(ゆみひこ)やな。霜月(しもつき)やし」  水煙(すいえん)が至極(しごく)当然のように名付けると、座敷(ざしき)の一同(いちどう)には、やっぱりという空気が流れた。 「弓彦(ゆみひこ)? ユミちゃん? 女みたいやない?」  水煙(すいえん)の車椅子(くるまいす)の取っ手にもたれて立ち、亨(とおる)がケチをつけた。

ともだちにシェアしよう!