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29-12 アキヒコ
こいつも将来 、誰 かと心を通 わすことがあるんかもしれへん。
そういう時がまだ想像 もつかへんのやけど、そうなる時のために、こいつの心の中の一番いい場所は、とっておかなあかんのや。
幸せな一生を送れるように。
運命 の相手 のための指定席 はもう、予約 されてて座 れへんのや。俺でも誰 でも。
こいつが自分で出会う誰 かが、突然 座 ってくるまで。
だけどあいつは、俺に座 ってほしいって。
勝呂 瑞季 の暗い目を思い出し、俺は弓彦 を抱 きながら、暗い目をしたんかもしれへん。
弓彦 は敏感 やった。
ぎゅうっと眉 寄 せた悲しい顔になり、急 に泣き出したんや。
「お兄 たん」
ジタバタと手足を暴 れさせながら、弓彦 はグズりだした。
まるで焼き餅 焼いてるみたいな怒 り方やった。
こいつ、俺の心が読めてんのやないか。
そんな気がふっとして、俺は慌 てて弓彦 をあやしながら、変な汗 かいてた。
滅多 なこと考えたらあかんな。無心無心 。
こいつも秋津 の子やで。ただの幼児 やないんやからな。
ていうか、ただの幼児 では全然 ない。こいつ一体、何歳 や。
「おかん、これほんまにさっき生まれたんか?」
最初に聞けっていうようなことを、俺はやっとおかんに聞いた。
「そうどすえ。うちももう歳 やさかい、アキちゃんの時みたいに長く孕 むのはくたびれます。お母さんしんどいさかい、早 う大きいなってなあ、て頼 んでましたら、五ヶ月ほどで出てきてくれましたわ。親孝行 な子やわぁ、ユミちゃんは。可愛 い可愛 い、ほんまにええ子や」
泣いてる弟のほっぺたをプニりながら、おかんは歌うように言うて、弓彦 のご機嫌 をとってやってた。
おかん。できる親孝行 にも、人間には限界 てもんがある。
五ヶ月しか胎 に居 いひんと、さっき生まれたのに、もう三歳 ぐらいになってるて、そんな親孝行 聞いたことない。
普通 の家では、子供 が三歳 になるには、三年かかるんや!
こんな調子 でどんどん大きいなって、あっという間 にジジイになったら、どないするんや。
せっかく生まれたのに、おかんのせいで、あっという間 に死んだら、どないする。
弓彦 が可哀想 やわ。
そんな俺の気持ちをお見通 しやったんか、おかんはうふふと笑 うた。
「心配おへん。この子はな、時を操 れるだけなんどす。赤ん坊 にかてなれると思いますえ。子供 になったり、大人になったりできますのや」
メルモちゃんかよ! そういう話があるんや、手塚 治虫 さんの名作 漫画 でな、キャンディー食うたら大人になったり子供 になったりする女の子の話やねん。
そんなこと、ほんまにあるんやなあ。
そんな弟、どないして育てたらええんや⁉︎
今日は二歳 で、明日は五歳 で、明後日 にはまた赤ん坊 になってましたって?
そんな子やと、幼稚園 にも小学校にも行かせてやられへん。
だって何年生の教室に行けばええんや?
大変や……。うちの子育て。俺の子ちゃうけど……。
「まあ、今のところは、これぐらいの歳 までしか大きいはなられへんようどすなあ。まだ未熟 なんどすやろ。赤ちゃんやもんなあ?」
首を傾 げて、おかんは弓彦 に優 しく言うた。
グズってたのが、だいぶ泣き止んできたところやった。
「どうするかは、追い追い考えましょ。アキちゃんの時かて、何とかなったんやもの。案 ずるより産 むが易 しどす」
もう産 んでるけどな。
大丈夫 かな。うちの弟。
皆 の周 りにも、毎日歳 ちがうみたいな子おっても、いじめんといてな。俺の弟やねん。
俺が心配になりながら、また弓彦 を抱 っこしてると、蜜柑 太郎 はまた、きゃあきゃあと嬉 しそうな声をあげた。
水煙 が、戻 ってきたからやった。
亨 が押 す車椅子 に乗 って、何か長い巻物 みたいなのを沢山 抱 えた水煙 が、こっちの座敷 に来るところやった。
あの神戸 の朝からこっち、水煙 は太刀 やったり、キラキラした顔の青い神さんやったりした。
それでも時々、俺が描 いた絵の美青年 やったりもした。
今日はそれや。
上品 な、つんと澄 ました表情に、潤 んだような鋭 い目をしてる。
肩 に触 れる長い黒髪 を片側 に流して、車椅子 に座 ってる姿 は、いつもの青い時ほどの神々 しさはないものの、十分、人を二度三度と振り向 かせる力を持った美貌 やった。
「生まれたんか」
びっくりと、呆 れたの中間 の声で、水煙 が弓彦 を見て言うた。
まだ生まれるとは思ってなかったんやな。
そりゃまあ、五ヶ月しか経 ってへんのやったら、今日生まれるとは思わへんよな。
水煙 には未来を予知 する力はないんやから。
「今 しがた、急 に産気 づいてもうて。元気な男の子どす」
おかんは水煙 に、俺の抱 いてる弓彦 を示 した。
「弓彦 やな。霜月 やし」
水煙 が至極 当然のように名付けると、座敷 の一同 には、やっぱりという空気が流れた。
「弓彦 ? ユミちゃん? 女みたいやない?」
水煙 の車椅子 の取っ手にもたれて立ち、亨 がケチをつけた。
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