805 / 928

29-13 アキヒコ

 俺の弟の名前に文句(もんく)言わんといてくれ、(とおる)。 「それやったらアキちゃんかて女みたいやで」 「そういえばそやな」  真顔(まがお)でつっこむ水煙(すいえん)に、(とおる)はからからと笑った。  水地(みずち)(とおる)全然(ぜんぜん)変わらへん。  神戸(こうべ)の朝からこっちも、それより前と同じ、俺の心を(あま)(しび)れさせる神さんで、ほどほど普通(ふつう)。  神殿(しんでん)()てて(まつ)り、毎日五体投地(ごたいとうち)して(いの)るほどでない、()いて愛せるぐらいでいてくれる、()(がた)いうちの大明神(だいみょうじん)や。  神戸(こうべ)の海で見た、あいつの姿(すがた)を、俺は(わす)れることにした。  白く(かがや)水底(みなぞこ)の王で、なんか信者(しんじゃ)みたいな(ほね)が、海の底からいっぱい出てきた。  おとんが世界中(めぐ)って(ひろ)ってきよったんや。そんなもん集めにいってたとはな。(おそ)ろしい親や。  俺は(とおる)が過去に何者(なにもん)やったかなんて、全然(ぜんぜん)知らんでいい。  知ってもうたらもう、いつも(となり)にいて、カレー食うとく(わけ)にはいかんようになる。  手(つな)いで四条河原町(しじょうかわらまち)()れ回されへん。普通(ふつう)でええんや。ただの(へび)で、ただのエロい妖怪(ようかい)や、こいつは。  そして(いと)しい俺のツレ。 「何やっとったんや、(くら)で」  水煙(すいえん)(とおる)が、二人でシケこんでごそごそしてると、何か(おそ)ろしいことになりそうで、俺は胸騒(むなさわ)ぎがする。  ろくなことないんや、こいつらの(なか)がええと。  仲悪(なかわる)いよりは、ずっとええんやけどな。 「絵を(さが)してたんや。先代(せんだい)の」  水煙(すいえん)が、(ひざ)に持ってた(じく)のひとつを、車椅子(くるまいす)から俺に差し出した。  おとんの絵。  緑青色(りょくせいしょく)(きぬ)()かれた(じく)を受け取り、俺はそれを開いたもんかどうか。  弟も()っこしてるし、無理やなって、言い訳(いいわけ)してもうて、見る勇気が出えへん。  もし、下手(へた)やったら、どうする?  何やおとん、大したことないなって、なってもうたら、俺はつらい。  それとは逆に、これは天才やみたいなんが出てきたら、どうする?  もしもそうやったとしても、おとんはもう絵を()かへん。(ふで)()れてる。  そんな、もう二度と()かへん天才の絵を見て、苦しむのは(つら)い。  目の前におって、()けば()けるはずの男が、もう()かへんやなんて。 「ちょっと見てみたらどないや。和子(わこ)は俺が()いといてやろう」  和子(わこ)って赤ん坊のことやで。水煙(すいえん)、何時代や。  ほな、見ようかという空気になり、(とおる)なんかは見る気まんまん。  大崎(おおさき)先生かて鼻息(はないき)(あら)い。  お前なに興奮(こうふん)してんのや。持って帰るなよ、うちの(くら)所蔵品(しょぞうひん)を。  (とおる)(たたみ)巻物(まきもの)を全部(うつ)し、()いた水煙(すいえん)(ひざ)に、俺は弓彦(ゆみひこ)(すわ)らせた。  水煙(すいえん)はまるで、子供(こども)(いだ)くのは初めてやないというふうな、()れて気負(きお)わん仕草(しぐさ)で、弓彦(ゆみひこ)()っこした。 「かしこい子やわ」  にこりともせず、水煙(すいえん)真面目(まじめ)幼児(ようじ)の顔を(のぞ)()んでいた。  幼児語(ようじご)とかちゃうんや。水煙(すいえん)がおかんみたいに、子供(こども)をあやす声になったらどうしようかって、内心(ないしん)びびってたのに。  水煙(すいえん)は、俺に話すのと変わらん口調(くちょう)で、弓彦(ゆみひこ)と話している。 「お前は、弓彦(ゆみひこ)や。俺の名は水煙(すいえん)、この家の御神刀(ごしんとう)や。よろしゅう(たの)むで」  冷たい美貌(びぼう)の神に言われて、弓彦(ゆみひこ)は急にまた、きゃあきゃあと興奮(こうふん)した喜ぶ声をあげ、まだあどけない動きで、水煙(すいえん)(はら)にぎゅうっと()きついた。  俺のモンやみたいな()き方やった。  俺はそれにカチンと来た。  これも、あかんやつや。  いや、いや、あかんあかん。相手は幼児(ようじ)や。俺の弟や。家族やねんから、水煙(すいえん)とハグしてもええやろ。  俺はしいひんけどな。水煙(すいえん)気軽(きがる)にハグしたりしいひん。  (おそ)れ多い神さんなんやしな。そんなんしいひん。  お兄ちゃんがしいひんのに、なんでお前はそんなことするんや、蜜柑(みかん)太郎(たろう)。  いくら幼児(ようじ)でも、ちょっとは遠慮(えんりょ)せえ。お前も秋津(あきつ)の子なんやろ。  秋津(あきつ)の子やからやな、水煙(すいえん)(むね)にグイグイいくのは。  何かそうしたい気持ちが血の中から()いてくるんやな。わかる。 「登与(とよ)ちゃん、この子、時空人(じくうじん)やな。人界(じんかい)に出すなら、ちゃんと、自分の(とし)(おぼ)えさせて、ころころ変えんようにさせなあかんで。特に子供のうちはな、(しつけ)がつくまで、人間の、そこらの他の子とは遊ばせんほうがええ」  水煙(すいえん)の育児アドバイスを聞くおかんの顔は、真剣(しんけん)そのものやった。 「そうどすな。アキちゃんの時は、一人っ子やし可哀想(かわいそう)やと思うて、小学校から(かよ)わせたんどすけど、えらいいじめられてもうて。ほんまに難儀(なんぎ)どした。ユミちゃんは家で育てましょ」  おいおいおかん、またもや過保護(かほご)宣言(せんげん)か。小学校行け、ユミちゃん。  どうも、水煙(すいえん)子供(こども)が生まれた時に()ぶのは、これからこの特殊(とくしゅ)な子を、どうやって(みんな)で育てていけばええのかという、相談のためや。  名前はついでや。せやし使い回しでええんや。  問題は、名前なんかやのうて、うちの子が他の子たちとあまりにも(ちが)うということやった。  それでも、秋津(あきつ)の子は、幸せに育って(もら)わな(こま)るんや。  なんでって、水煙(すいえん)にとっては(みんな)、俺も、おとんもおかんも蔦子(つたこ)さんも、もちろん蜜柑(みかん)太郎(たろう)もやで。大事な()が子みたいなもんやからや。

ともだちにシェアしよう!