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29-15 アキヒコ
どの絵やろ。後で見よう。
いっぱいあるわ。それに、いい絵や。
おとんの絵は、ずっと見ていたくなるような名作 で、別に何か激 しく訴 えかけてくる際立 ったテーマとか、派手 な画風 の個性 があるわけやないんやけど、一目見たら、これはあいつの絵やって分かるし、見るものの正面 に座 って、まっすぐ語りかけてくるような、実直 な絵やった。
これ、祇園 の画商 の西森 さんが見たら、欲 しいって言うやろな。
先生、もっと描 いて、じゃんじゃん売りましょう。描 けたそばから、どんどん持ってきとくれやす。そういう感じで、前のめりにな。
俺 が見てても、欲 しい絵やった。
手元に置いて、愛 でておきたい。我 が物 にしたい。そういう絵や。
少なくともこれは、凡夫 の絵ではないわ。
どないしよ。俺 は何や、嬉 しいなってきて、今すぐにでも絵を描 きたいなと思った。
今ここで。おとんと一緒 に。
なんやねんおとん。絵、上手 いやないか。
どないしよ。これは、絶対、負けてはおれへん。わくわくしてきた。
なんでもう、おとんは絵描 かへんのやろう。そんなの、全然、面白 うないやんか。
この世はもっと、描 きたいもんで満 ち満 ちているはずや。筆 を折ってる暇 なんかない。俺 はそう思うんやけど。
「暁彦 は鯉 食わへんで。どうするつもりや、それ」
秋尾 に言うて、首をかしげる水煙 に、おかんはにこにこしていた。
「うちが食べます。鯉 は好物 や、うちはお兄ちゃんと違 て、川の鯉 と気を通じたことはおへんよって、平気どす」
なんかおかんが非道 に思えてきた。おとんの鯉 の絵を見たら、俺 ももう、鯉 の吸 い物 とか可哀想 で食えんようになるんかもしれへん。
秋尾 さんはやっと、鯉 の行く先が決まり、盥 で暴 れる気の毒な鯉 を、おかんの腹 に入れるため、台所 のあるほうへと持っていった。
「この中にあるはずや」
それを見送り、水煙 が言うた。畳 の上に積 み上げられた軸 の数は、二十数本もあったやろうか。
表具 は様々 、色とりどりの錦(にしき)で飾 られ、それだけでも美しかったが、中の絵がどうなっているんか、俄然 、興味 が湧 いてくる。
「早う、次いこ」
大崎 茂 や。水煙 も別の意味で、じれたふうに言うた。
「面倒 や、亨 。全部開けてくれ。見てて楽しい絵でもないんや。さっさと済 まして、また蔵 に片付 けるで」
楽しないという水煙 に、俺 と大崎 先生は、ぎょっとなってた。亨 は苦笑 し、ほないくでと、雑 な手つきでどんどん軸 を開帳 していく。
やめろ、亨 ! コロコロするんやない。絵が痛 むやないか!
お前は絵が全然わかってへん。これは全部、世界にひとつしかない、一点ものなんやぞ。
全部、原画 や。これが失われたら、これっきりなんやで⁉︎
家で漫画 読んでんのと違 うんや。もっと丁寧 に扱 ってくれ、頼 む!
震え上 がる俺 と大崎 先生の前で、どんどん過去の目の覚 めるような絵が広げられ、座敷 はまるで絵の中の異界 のようになった。
かつてはこの家に、ほんまに居 ったやろう、おとんの愛した、あるいは、おとんを愛した式神 たちが、勢揃 いするような有様 やった。
見れば見るほど、美術館のガラスケースの中に静かに掛 けとかなあかんような軸 や。
今にも動き出しそうな翼 や、爪 や、咆哮 する獣 が、床 を彩 り、こっちに飛び出してきそうやった。
「すごいな、これ。全部、仕舞 ってあったんやなあ……」
大崎 先生は垂涎 の声でいい、畳 に崩折 れていた。
別に倒 れてる訳 やのうて、絵を近くで見たいんやろう。
それに比べて亨 と水煙 は、あんまり興味 ないふうに、立ったまま、車椅子 に座 ったままで、へー、て言うてた。
美術展 を見に来た変態 と、一般客 みたいな構図 やったわ。
「乾山 、輝夜 、化野 、蛍 、山茶花 、兎 ……違 う。みんな死んだやつや、亨 。仕舞 うといてくれ」
「待って! 待ってくれ、俺はまだ見とるんや!」
目を皿 のようにしてる変態 ・大崎 茂 の嘆 きも虚 しく、亨 は無言でくるくると軸 を巻 いていった。
今そこにいた化けモンたちが、くるくると、また閉 ざされた絵の世界に呼び戻されていく。
おとんは何を思うて、これを描 いたんやろう。
これは皆 、おとんが出征 する前の最後の期間に描 き上げたもんで、絵に描 かれた式 は皆 、死んでもうたんや。
もしかして、おとんは、戦 に連れて行く奴 らの、最後の肖像 を描 いたんやろうか。
秋津 の家で、最も強く、使いモンになる式神 たちを、おとんは根こそぎ連れて行ったんや。
そいつらは、おとんが死ねと言えば、死ぬような奴 らやった。
ちょっとそこまで付いていくだけの、軽い気持ちでおとんに付き従 うたとは思えへん。
この軸 にいる一柱 、一柱 と、おとんは何かの強い絆 で結 ばれていたはずや。
これはおとんの後宮 や。
それは確かに、水煙 にとって、気持ちのええ絵ではないんやろうな。
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