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29-16 アキヒコ
顔を顰 めて、睥睨 する目で水煙 は、亨 の開く軸 を見て、これやない、これやないと言うた。
そのたびに、開いたり巻 かれたりする軸 を、大崎 先生は泣きながら見て、最後は伸 びてもうたように、ごろりと畳 に突 っ伏 していた。
「アキちゃんはずるい……」
先生、ほんまに泣いてはるんですか。ここ、他所 の家やのに。
俺の実家 で泣かんといてくれませんか。
「こんな絵を描 けるのに、もう描 かへんやなんて。そんなん、ずるいやろ。そうやろ坊(ぼん)。お前もそう思うやろ?」
ほんまに泣いてる大崎 先生は、駄々 っ子みたいに言うて、俺を見上げた。
そんな目で見んといれくれ。俺は困 ってもうた。
大崎 先生が、俺のおとんをほんまに好きやということが、その目を見れば、分かるからやった。
「思います」
「そんならお前がなんとかしたれ! 走っていって、お前のおとんに言うてこい。もういっぺん絵描 いてくれって。そうやないとな、そうやないと……あいつがこの世に生まれてきた甲斐 がないんや!」
わんわん泣いてる大崎 先生に、水煙 はほんまに嫌 そうな顔をした。
「うるさい奴 やなあ……。こいつどっかに遣 られへんのか? ほんまにヘタレの茂 やねんから」
「まあまあ、しゃあない。おとんの絵のファンやねんからな」
苦笑 して、亨 は大崎 先生を弁護 してやってたが、大崎 先生は、おとんの絵のファンやのうて、おとんのファンなんやろう。
この人も、家族ではないんやけど、ほんまにうちのおとんのことを、思うてくれてる。
少なくとも、絵師 としてのおとんのことを理解してくれてたんは、この家ではずっと、大崎 先生だけやったんやろうな。
おとんは、絵描 くな言うて、育てられたんや。俺と一緒 やな。
滅多 なことでは絵を描 くな。お前の絵には強い霊力 がある。
そんなもん迂闊 に描 いて、不始末 あったらどないしますのん。
どうしても、ここぞという時にだけお描 きやす! てなもんやろう。
そやから、おとんも、止 むに止 まれぬ時だけに描 いてたはずや。
描 かんと死ぬ、ていうような強い衝動 が、絵師 にはあるんや。
ほんまに惚 れに惚 れた題材 がそこにあれば、描 かんと死ぬ。生きている甲斐 がない。
そういう気持ちは、誰 にでもは分かってもらえへんのやろうけど、俺には分かった。
たぶん、大崎 先生にもやろう。
俺、初めて、大崎 茂 が家にいてくれて良かったって思うたわ。
「無いなあ……」
首を傾 げて、亨 が開いた軸 を全部見た水煙 は、訝 しげに言うた。
そして、ふと俺を見て、あっという顔をした。
「そこにまだ一本あったやないか」
俺はそう言われて、自分の手に持っていた一丈 の軸 を見た。
あっそうや、初めに水煙 が俺に手渡 してきたやつを、絵に見とれるうちに忘 れてもうて、持ってたままやったわ。
その軸 は、これといった装飾 はない、質素 な絹 で裏打 ちされていた。
描 かれた日付を見ると、おとんが出征 する直前も直前の時期に描 かれたものやった。
もう、その時期には、日本は戦争に負けつつあったし、表具 にするための絢爛 な錦 にも事欠 いたということなんやろうか。
いや。そういう訳 やないのかも。
俺にはその布地 が、誰 かが着てた着物の反物 なんやないかと見えた。
緑青 がかった黒い色味 で、色の白い肌 に映 えそうな、質素 でも上質 な絹 やった。
俺にはそういう趣味 に見覚 えがある。
いつも、シンプルでシックやけど、ええ布 着てて、お洒落 な奴 、おるわ。たぶん今も、神戸 におると思う。
「開けてみろ、アキちゃん」
水煙 に言われて、俺は丁重 にその軸 を開いた。
コロコロしいひん。
これはたぶん、おとんが人生の最後に描 いた、大事な絵に違 いないんや。
絵には暗い色で、夜空が描 かれていた。
そして月。
鋭 い三日月 の夜で、空には闇 が垂 れ込 めている。
細 った月には朧 なる、靄 がかかっていて、その傍 に、龍 が描 かれていた。
黒い鱗 で、闇 からたった今、現れ出たような、幻 みたいな龍 が、長い体をくねらせて、月に戯 れかかるように飛んでいる。
その瞳 が、こっちを見ていた。
うっとりと、魅了 されたような目で、しどけなく見つめられると、見るものも魅了 されてしまう。
合わせた目を逸 らして、この絵の前を去ることが、一生無理になるんやないかという、まさに神がかった傑作 やった。
絵の左下には、暁雨 とおとんの雅号 が入れてあり、蜻蛉 の落款 が赤く血のような色で捺 されてた。
それまで含 めて美しい、これ以上、足すものも引くものもない、完璧 な絵や。
俺は震 えて全身に鳥肌 立ち、大崎 茂 はほぼ気絶 。床 に伸 びて泣き、ピクピクしか動かんようになった。
その絵には、一般人 をも唸 らせる何かがあったようや。
亨 は、おお、と歓声 をあげた。
水煙 の、ふんていう顔が、不満げやったけど、こいつが探 していた絵はこれや。
「見つけたわ。これが朧 やったんやな」
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