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29-17 アキヒコ

 ムカつく、と正直に書いてある顔で、水煙(すいえん)(にく)そうに言うた。 「これ見て、分からへんかったんかい、水煙(すいえん)。見たまんま怜司(れいじ)兄さんやないか」  可笑(おか)しそうに(とおる)が笑い、水煙(すいえん)はさらにムッとしたようやった。 「分からへんかったんや。当時はな。分からんで良かったやないか。知っていたら()()てさせてたわ」 「(こわ)いってお前」  ひいい、とドン引きの笑い顔で、(とおる)水煙(すいえん)車椅子(くるまいす)()に軽く腰掛(こしか)けている。 「あいつがまさか(りゅう)やったとはな。神戸の一件まで、俺は知らんかった。そやけど、暁彦(あきひこ)は知ってたんやな。腹立(はらだ)たしい(かぎ)りやわ。それでも……この絵が残ってて、よかったわ」  しみじみと、水煙(すいえん)は言うた。 「この絵を見て、どう思う、アキちゃん」  水煙(すいえん)に聞かれても、俺はすぐには答えられんかった。  自分が開いた絵の(りゅう)と、ずっと見つめ()うていた。  愛してる目で、(りゅう)がこっちを見てる。  なんで、おとんが(おぼろ)を好きなんか、理屈(りくつ)()えて、俺にはわかった。  (いと)おしい神が、全霊(ぜんれい)をかけて、自分を愛してくれる。それだけで、人が神に(つか)える理由には、十分すぎるほどや。  他にも理由はあったやろうけど、おとんはこの(りゅう)の目から、目を(はな)せんようになったのやろう。  この絵を見れば、(だれ)にでも分かることやった。 「おとんの最高傑作(さいこうけっさく)やろうな……」  まだ絵を見たまま、俺はぼんやり答えた。  ずっと絵を見ていたいけど、もう(じく)()かなあかん。 「あいつに、電話せなあかんな」  くるくる(じく)(もど)して、俺はそれを、おかんに(あず)けた。  この家で、この絵の価値(かち)を理解してて、信用できるんは、どうもおかんだけや。 「(おぼろ)(きょう)呼び戻(よびもど)せ。その絵をくれてやってかまへん。きっと、機嫌(きげん)(なお)すやろう」  水煙(すいえん)が、静かにそれを(ゆる)した。  他でもない水煙(すいえん)が、(おぼろ)をこの家から追い出して以来、もう何十年の時が流れてた。 「ええ考えどす、アキちゃん。お父さんはたぶん川にいてはりますえ」  着物の(そで)で、刀でも(あず)かるように、(じく)()き、おかんはにこにこと俺を送り出した。  川か。  うちの実家は嵐山(あらしやま)にあり、それは(きょう)の西を流れる大河(たいが)桂川(かつらがわ)のそばにある。  美しい山並(やまな)みに、美しい川筋(かわすじ)、春には桜、秋には紅葉(こうよう)があり、ゆったりとした流れにかかる渡月橋(とげつきょう)も美しい。  京都の中でも、有数(ゆうすう)の観光地のひとつや。  うちの家は、観光客でごった返す渡月橋(とげつきょう)()りから、もっと上流(じょうりゅう)へいったところにある。  紅葉(こうよう)が始まり、川辺(かわべ)の木々は燃え上がるようやった。  目に(うつ)一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)が絵になるような風景や。  この地を本拠地(ほんきょち)に選んだうちのご先祖の美意識(びいしき)はさすがとしか言いようがない。  そんな名画(めいが)の中に立ちながら、おとんは絵も()かず、ぼうっと川を見ていた。  由々(ゆゆ)しきことやわ。  川風(かわかぜ)で寒い河原(かわら)の石を()んで、俺は水からちょっと(はな)れたところに立っているおとんの(となり)に行った。 「おかんがここやて言うてたし」  なんで来たんやという迷惑顔(めいわくがお)のおとんに気後(きおく)れして、俺は()(わけ)をした。  これがさっきの絵を()いた男かと思うと、俺はドキドキした。  俺はおとんのファンなんか? そうかもしれへんな。 「お登与(とよ)か。あいつからは生半可(なまはんか)なことでは()(かく)れできひんな。別の位相(いそう)()げればよかった」  それは天井裏(てんじょううら)か?  そこまで()げんといてくれて良かった。 「おとんの絵、見せてもろたで……」  そこから、どう言おう。思いつく言葉がのうて、俺は(だま)った。  川が滔々(とうとう)と流れている。 「そうみたいやな。あないなもん持ち出して、水煙(すいえん)は一体どういうつもりや」  おとんは苦虫(みがむし)()(つぶ)したような顔やった。  どういうつもりやったんやろうな。水煙(すいえん)。  多分あいつも、おとんのことを、心配してんのやで。 「大崎(おおさき)先生、絵見て泣きながら痙攣(けいれん)しとったで」 「アホなんか、あいつは……」  頭(いた)いみたいに言うて、おとんは目頭(めがしら)()さえた。 「俺も感動(かんどう)した」 「ふうん。そうか」  どの絵を見たんやって、おとんは聞かへんのかな。  聞いてくれたらええのにな。 「アキちゃんも日本画なんやもんな。時々、お前が()いてる絵を(ぬす)み見てたわ。大学では、どんな絵を()いてんのや?」 「うーん……いろいろや」  川を見ながら、その場にしゃがんで、俺は石を(ひろ)った。  ()かない顔でもしとったやろうか。おとんは心配げに俺を見下ろしていた。 「なんか学校で(こま)ったことでもあるんか?」  クラスメイトにいじめられたんか、みたいな顔でおとんが聞くんで、俺は思わず笑い声をあげた。  俺は何歳(なんさい)やねん、おとん。もう小学生やないんやで。 「卒業製作の絵がな、まだ仕上がってへんねん」 「それは(こま)ったことなんか?」 「めちゃくちゃまずいわ。卒業できひんのやもん」 「()けばええやないか」  それが大したことではないように、おとんはしれっと言うてた。  俺は苦笑(にがわら)いやった。

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