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29-20 アキヒコ

()うてやってくれ。ほんまに(たの)むし! ちゃんと支度(したく)して、おとんのこと()ぶし、絶対(ぜったい)来てくれ。時間かかるかもしれへんけど、絶対(ぜったい)に何とかしてみせるから!」  おとんはぐいぐい来る俺に、軽く()()り、気圧(けお)されたんか、()れたような苦笑(にがわら)いやった。  俺、ここまでの熱意(ねつい)(だれ)かを口説(くど)いたことないで。おとんが(はつ)やで。素面(しらふ)では(はつ)や。 「何の茶番(ちゃばん)や、アキちゃん……まあせいぜい、お気張(おきば)りやす」  ()れたふうに、おとんは俺に手を(にぎ)られながら、目を()らしてた。  でも、まんざらでもないで、これは!  強情(ごうじょう)やとおかんがいう、おとん大明神(だいみょうじん)が、俺の必死の(おが)(たお)しに動いてくれた。  (いの)りや! 神を動かすのは心からの必死の(いの)りなんやな!  おとんの中で止まっていた時が、また、動き出すのを俺は感じて、良かったと思った。ホッとした。  あとは(おぼろ)説得(せっとく)するだけや。  電話して、来いて言うたら、あいつは来るんか?  俺の(しき)やし、命令したら飛んで来る。そういうことでええんやろうか?  俺が(なや)んだ矢先(やさき)、川の方から、じゃぼんていう大きな水音(みずおと)が聞こえた。  俺が(おどろ)いて、そっちを見たら、おとんも見ていた。  川に真っ白い、それに紅葉(こうよう)を散らしたような赤と黒の文様(もよう)のある着物着た、なんか悲しそうな目のやつが()るのを。  (こい)や、これ。錦鯉(にしきごい)?  (かみ)(くちびる)も白くて、大きな目は、泣いたような魚の目やった。  そして美しい顔をしていた。  その(もの)()は、(おどろ)きに(あえ)ぐように口をぱくぱくさせてから、声ではない声で話した。  暁彦(あきひこ)様、って。  お(なつ)かしゅうございます、って。  (せつ)ない、(むね)を打つような声やった。  今すぐ()きしめてやって、愛してやらなあかん(てき)な空気が濃密(のうみつ)やった。  あ、これ、こいつの絵、さっき見たわ。おとん、こいつの絵も()いてた。  いい絵やったわあ、それも。名作(めいさく)やった……。  あかーん!! めっちゃ急がへんと、おとんが他のに(さら)われてしまいかねん!  (おぼろ)! ボヤボヤしてたら打順(だじゅん)が終わってまうで!  おとんがフリーのうちに、どっかに閉じ込(とじこ)めて、ゆっくりじっくり頭から足まで全部バリバリお前が食うんや。  それがいい。今度こそ、下手(へた)こいたりせず、暁彦(あきひこ)様を自分のもんにしろ。  そうしよう。それがおとんにとっても幸せや。  俺はものすごいスピードで、おとんの手を引いて()れて帰った。  美しい半魚人(はんぎょじん)おるさかい、川で遊んばんとってくれ。  (たの)むで、おとん。家に()れ!  そして、その日はそれでおしまいや。  えーって言われてもやな、アキちゃん残念ながら(ひま)やないんや。俺が(すく)わねばならん(もん)は他にもいてる。  まあ聞いて。  勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)や。次はあいつの話をしよう。  その前に、茶でも飲んで、一息(ひといき)いれるか? 俺は茶よりコーヒーやけどな。  絵()く時はいつも、大学のそばのコーヒー屋さんで、でかいカップのコーヒー買うねん。  実は俺はそこに勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)一緒(いっしょ)に何度か行ったことがある。  アキちゃん、まだゲロってない話がいくつかある。  (とおる)には言わへん。そんなんもう()ぎたことやろ?  そやけど話すわ。  (こと)の起こりは、やっぱりあの、大学で祇園祭(ぎおんまつり)の絵を()いていた、あの夏にある。  勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)は俺に()れてた。  まあ普通(ふつう)に言うて、()()がれてた。  あの(ころ)は、俺も晩稲(おくて)で、巫覡(ふげき)()がれる(しき)の何たるかなんて、さっぱり全然(ぜんぜん)分かってはいない。  ごく一般(いっぱん)の大学生やったからな。  それでも勝呂(すぐろ)普通(ふつう)でない目で俺を見ていることは、ほんま言うたら気がついてたやろう。  あいつと極力(きょくりょく)、二人きりにはならんようにしてた。(あぶ)ないからや。  まあ、あいつは当時、危険(きけん)猛獣(もうじゅう)やった。  疫病(えや)みのせいで、おかしくなってたし、俺を食いたいという目をしてた。  もしも気を許したら、でかい犬神(いぬがみ)に、物陰(ものかげ)に引っ張りこまれて、頭からバリバリ食われる。文字通り食われてたかもしれへんわ。  あいつは何事(なにごと)思い詰(おもいつ)めるたちで、俺を色事(いろごと)でモノにでけへんのやったら、いっそ食おうとしたかもしれへん。  (おに)ってそういうもんや。(こわ)いよな。  勝呂(すぐろ)は代わりに、他の人間を食うてた。  それはそれは悲惨(ひさん)でつらい夏やったなあ。  俺も(とおる)も死にかけたし、勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)は死んだ。  そうして別れて、もう二度とあいつの目を見ることはない。俺はそう思うと(つろ)うて、つい、あいつのことを絵に()いていた。  まあ、さすがは俺も暁雨(ぎょうう)の息子やわ。絵、()いてまうわ。  そやけど、その(だん)(いた)っても、俺はおとんほどの勇気はないヘタレや。  俺が()いた瑞季(みずき)の絵は、(ねむ)っている犬の姿(すがた)やった。  おとんみたいに、絵の中に、自分を見つめる神の視線(しせん)()き残す甲斐性(かいしょう)はなかってん。  まだ未熟(みじゅく)やったんやろな。  その後、神戸(こうべ)開眼(かいがん)して、ちょっとはマシになれたつもりやけど、あの大阪(おおさか)(ころ)には、それで精一杯(せいいっぱい)やった。

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