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29-24 アキヒコ
「なんや」
「お前は平気か?」
「愚問 やな」
水煙 は、俺が使って放 っていた包丁 をソファの上からとって、そこに付いてた俺の血を、ぺろりと舐 めた。
その姿 に俺は、ぞくっとした。まるでちょっと鬼 みたいやったからや。
鬼 と神とは紙一重 や。そうやったやろ?
もしもまた水煙 が、鬼 になるようなことがあったら、それは俺のせいや。
「俺のことも、始末 しときゃ良かったと、お前が後悔 する日が来なければええんやけどな」
「そんなことない」
反射 的に俺は否定 したが、水煙 は淡 い笑みやった。
「アキちゃん……俺ともキスしてくれ」
ソファの上で、自分からしなだれかかってきて、水煙 は俺にキスをした。
触 れるだけの、短い、ぎこちないキスやった。
でも、それだけでも俺には十分やった。まだまだやれる。
亨 は寝 てもうたし、水煙 はまだや。
普通 に抱 いて、喘 がせられる身体 にしたんやし、ここで、もう一回……。
頭割 れそう。
ものすごい頭痛 がしてきて、俺は吐 き:気(けをこらえた。
べつに水煙 が嫌 なんやない。むしろ欲 しい。ほんまに欲 しい。
水煙 がもし、俺のただ一人の連 れ合 いで、ここで二人きりやったら、遠慮 なんかしたくはない。
今すぐここで押し倒 して、あの服を全部剥 いで、まだいっぺんも食うてない、この体での初物 を食う。
そういう欲 が自分の中にあるのを感じて、ますます自分に吐 き気 がしてきた。
でも、ソファの上にある包丁 が、俺の理性 をギリギリのところで押 しとどめた。
刃物 が魔 除 けやからかな。ここに寝 たら危 ないわって思えて、頭を冷やせたんや。
「アキちゃん。俺は秋津 の本家 に行こう。先代 の話がほんまやったら、新しい子も生まれるのやし、あの屋敷 なら部屋はいくらでもある。蔵 もあるのやし、お前を困 らせることはない」
犬も、連れて行くと、水煙 は小声 で言うた。
瑞季 はさっきよりはマシな姿 になって、寝息 をたてていた。
俺の血を飲んだからやろう。
俺の腕 の傷 も、もう無節操 に塞 がっていた。
「亨 とふたりで生きていきたいんやろ」
「それやとあかんのやろ……秋津 の当主 になるんやから」
俺はよっぽど思いつめた顔をしてたんやろうか。水煙 が、困 ったなって、くすりと笑うた。
「お前、いっぺん、死んだんやろ」
ソファの上に膝 を抱 えて、水煙 は丸くなり、眠 そうに俺を見た。
「ほんなら、もう、お前は居 ないんや。俺も今朝 、神戸 の海で死んだ。この世にもう居 らんもんが、当主やら、御神刀 やらを、やれるやろうか。もう、秋津 の家は滅 びたんや。そう思て、気楽にやったらええんやないか? 全く新しい、お前の家を作ればええんや。あいつを、守護神 として……」
水煙 はソファで寝 るつもりみたいやった。
いつもソファで寝 てたんやもんな。確かにそうやけど。あかん。
ベッドももう一台買わなあかん。こんなとこで寝 かせられへんやん。
「犬は何とかせえ、アキちゃん。何で俺がこんな犬と添 い寝 やねん」
ふわあと無防備 な欠伸 をして、水煙 は寝 るつもりみたいやった。
「犬は俺が、死なんように見といてやる。血をやったんやし大丈夫 や。明日の朝には、多少の力も湧 いてくるやろう」
お前は亨 のとこに、行ってやり。
水煙 はそれが正しいことやというふうに言い、そうやなと俺も思ったが、その後すぐ、俺はまたトイレで不気味 な虫をゲロってた。
俺、死ぬで。これを半年、一年、永遠に続けたら死ぬ。
瑞季 も死ぬ。水煙 と亨 も、死ぬかもしれへん。
鯰(なまず)と龍 を何とかしたら、元の暮 らしに戻 れるんやったんやないのか。
ここ、別の時空 か? ハッピーエンド時空 どこ行ったん?
ぼやいても、しょうがない。自分のせいや。自分で蒔 いた種 。
拒 んでも、拒 んでも、結局 は流れ着く運命の合流点 みたいなのがあって、俺は水煙 や瑞季 からは逃 れられへん。
もちろん亨 とも離 れられへん。
その合流点 が地獄 でも、ここで生きるしかないんやな。
俺も一年、二年と過 ぎるうち、思うようになるんかな。
あの時、殺 っときゃよかったなって?
最悪や。俺はその後も一睡 もできず、夜明けを見た。
もう無理や、寝 たふりして横になってるのがつらい。
俺は寝 てる亨 を起こさへんように、そうっと寝室 を出た。
リビングでは、水煙 がソファですうすう寝 てた。たぶん寝 てるんやと思う。
そして、瑞季 も寝 てるんかと思ったら、犬が居 らへんのや。俺は心底、ぎくりとした。
まさかあいつ、消えてもうたんか?
ホッとするより、何かパニクってきて、そこらに落ちたままやった包丁 とか、ソファに残ったままの、俺のか犬のか分からん血の染 みに、頭くらくらしてきた。
探 さんと。
案外 どこかに居 るだけかもしれへん。
俺は慌 てた早足で、リビングから玄関 に行く廊下 に出て、そこでまたぎくりとした。
玄関 の隅 に、瑞季 が居 ったせいや。
居 ても、居 なくても、困 る奴 やった。
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