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29-27 アキヒコ

卒制(そつせい)の話しよかと思って、来ました。勝呂(すぐろ)は見つけたんで()れて来ました」  手短(てみじか)に俺は用件(ようけん)を言うた。これ以上は省略(しょうりゃく)できひん。  (その)先生は、あわあわとおにぎりをしまって、言うた。 「卒制(そつせい)。そやな。本間(ほんま)くん、急がなあかんで、心配してたとこや」  先生は勝呂(すぐろ)(けん)をスルーした。それとも絵の方が大事やっただけか。  先生も絵()く男やし、浮世(うきよ)(ばな)れしてるんや。 「何か()けたかいな。見せてみて」  原案(げんあん)の紙とか、どこや? って、(さが)す目して、先生は手ぶらの俺を不安そうに見た。 「何一つ()けてはいないです。構想(こうそう)すらありません」  正直(しょうじき)な俺に、先生はまた椅子(いす)からコケていた。 「なんやそれ本間(ほんま)君⁉︎ 君、夏休み何しとったんや⁉︎」  剣道(けんどう)道場(どうじょう)いってシバかれ、(とおる)水煙(すいえん)瑞季(みずき)やラジオといちゃついて、(なまず)(りゅう)に殺されてました。  それで今日に(いた)る。  そう言うわけにもいかへんし、俺は(だま)ってたんやけど、先生は何かを(さっ)したふうに、身を()って()やんだ。 「あのなあ、本間(ほんま)くん。自由やけどなあ、(わか)い時をどう過ごそうと、時間は君のもんやけども、いくら(とおる)くんが可愛(かわい)いからて、そればっかりうっとり見とったらあかんのやで?」  (とおる)といちゃついた部分だけが伝わってもうてた。  ある意味それでも話は通ってる。 「君は才能あるのやし、絵()かな? いっぱい()くべき時期や。もう卒業もすぐやしな、これから君がどういう絵描(えか)きになるか……なるんやんな? なるとして、画風(がふう)はどうか、どういう方面で活躍(かつやく)したいか、近々には、とりあえずどないして生計(せいけい)を立てるんか、どこに就職(しゅうしょく)するんか、そのための名刺(めいし)がわりの作品になるんやで、卒業制作がな。言うなればこれは就職(しゅうしょく)活動や。一般(いっぱん)の大学の子らはもう就活(しゅうかつ)してるやろ? 君はその……どうするつもりや?」  俺はどうするつもりや?  急にめちゃめちゃ現実の問題が押し寄(おしよ)せてきたで。まるで津波(つなみ)のように俺を()む。  あんなに無理やありえへんと思った東海(トムへ)の王でも、過ぎてしまった今では、就職(しゅうしょく)活動よりもよっぽど簡単(かんたん)やった気がしてならへん。  (おそ)ろしいもんや就活(しゅうかつ)は。(りゅう)より(こわ)い。 「先輩(せんぱい)はもう、就活(しゅうかつ)せえへんのです。先生。家の仕事を()がはるって、決まってるから」  見かねたんか、勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)が口を(はさ)んだ。 「えっ。君、絵やめるつもりか」  先生は衝撃(しょうげき)の顔をした。ものすごショックみたいやった。 「いや……いやいや……それはあかんで」  立ち上がってオロオロする先生の目は、神戸(こうべ)の海でおとんの(ほね)がガラッて(くず)れた時の(おぼろ)の目を、めっちゃ(うす)めたやつみたいやった。  なんでそんな目で俺を見るんや先生。キモいです。 「いや……そら、君が決めたんやったら、俺がどうのこうの言うてもしゃあないんやけどな」  先生、急に引いて、また力なく椅子(いす)(すわ)った。 「でも、そうなんやったらなおさら、卒業制作には全力で取り組んでもらいたいんや。もしかしたら君の一生で最後の大作(たいさく)になるかもしれんのや。()いのない、全部出し切った絵を、見せてほしいんや」  先生に? いや、世間(せけん)にやな。 「そのつもりです。卒業しても別に絵()かへん(わけ)ではないんです。家業(かぎょう)()ぎながら、絵も()こうかなって」  俺が曖昧(あいまい)なそのプランを気軽に話すと、先生は(むずか)しい顔をした。  いまだかつてないぐらい、真剣(しんけん)(その)先生やった。 「そうか……。それもええな。そうやけどな、本間(ほんま)くん。ここだけの話、先生、いろんな学生をいっぱい見てきたわ。君らの先輩(せんぱい)にあたる子たちや。卒業して、(みな)それぞれいろんな方向へ()ばたいていったけどな、あれもしてこれもして絵も()くというのは、容易(ようい)やないんや。絵を()くには場所もいるし、時間や金もいる。環境(かんきょう)かて大事や。君は絵()くとき、いつも大学で()いてたやろ。家では()いてへんかった。そら、スケッチ程度(ていど)()くやろうけど、そういうんやのうて、展示会(てんじかい)に出すような絵は、大学で()いてたやろう、いつも」  真面目(まじめ)な目をした先生にじっと見つめられて、俺はちょっと、グッときてた。  先生。こんな目した人やったっけ。  目の(おく)に、なんや暗い火が燃えている。  なんか知らん情念(じょうねん)がメラメラ燃えて、俺を見てる。  先生も、(しき)やないけど、ほんまの顔を(かく)して生きてる人やったんかな。  俺の目が節穴(ふしあな)で、餓鬼(がき)やったから分からんかっただけで、先生かて、絵を()く化けもんやったんやな。 「君には絵()環境(かんきょう)が大学しかないということやで、本間(ほんま)くん。そこを出て、どこでどうやって()くつもりや? そう言うて卒業して、(ふで)結局(けっきょく)()れてまう子はなんぼでも()るんや。先生、それを見てきてるからな、君のことが心配なんや。そういうふうには、ならんといてほしい。君の才能はな、本物や。何十人、何百人の学生を見て来て、やっと一人おるかおらんかっていう、稀有(けう)な才能やで」

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