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29-28 アキヒコ

 先生が真面目(まじめ)に言うてるこそばゆい話は、大学の先生が学生に言うていい話の(いき)を、微妙(びみょう)()えてる気がした。  君は進路(しんろ)どないするんや、そうか家()ぐんか。頑張(がんば)りや、という流れを俺は想定(そうてい)してた。  まさか先生が、こんなこと言うてくるとは。 「どんなに強い才能があったかて、君が自分でその火を消してもうたら、終わりや。消えてもうた火をまた()けるんは、それはそれは猛烈(もうれつ)(むずか)しい。消さんようにすべきや。大学はな、聖域(せいいき)みたいなところや。絵を()聖域(せいいき)や、ここは。君は毎日絵()けるのが当たり前やと思うて、日々を浪費(ろうひ)してんのやろけど、それは間違(まちが)いやで。世間(せけん)には、君の絵を()く心を()き消そうとする風がずうっと()いてる。時には台風(たいふう)()みに()いてるんや。そこへふらっと出ていったらな、君の火も、あっという()に消されてしまうで。あっっっっっという()や。用心(ようじん)してくれ。ずうっとその火を守って、いい絵を()き続けてほしいんや」  めっちゃ長い先生の語りを、俺と勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)棒立(ぼうだ)ちで聞いて、ちょっと青ざめていた。  先生。どないしたんですか。(こわ)い。  先生がこんな、怪談(かいだん)の一人語りみたいな顔で()()ってくるなんて、若干(じゃっかん)ホラーや。 「先生、ええこと言わはりますね」  勝呂(すぐろ)があっさりまとめてくれた。  それで()(もん)が落ちたように、先生はいつもの()えへん苑一(そのはじめ)に(もど)り、がっくりと椅子(いす)にくずおれ落ちた。 「分からんのやなあ。分からんよなあ、君ら(わか)いし、世間(せけん)に出たことないんやもんなあ」  自分かてないやん。先生ずっと大学に()るやん。  この大学出て、大学院いって、卒業してここで研究員(けんきゅういん)やって、助手(じょしゅ)やって、准教授(じゅんきょうじゅ)やって教授(きょうじゅ)なんやん。  その人生のどこに一歩でも大学を出て世間(せけん)に行った日があったというんや。  そう思ったけど、俺は(だま)っといた。  ちょっと前なら言うてたかもしれへんのやけど、俺もそうやという気がしてた。  俺かて世間(せけん)なんか知らん。神戸(こうべ)で、霊振会(れいしんかい)の人らと仕事して、自分がどんだけ使えへん(やつ)かというのを痛感(つうかん)してきたところや。  これでやっと鬼道(きどう)修行(しゅぎょう)にも身が入るってもんや。  そこやで問題は。鬼道(きどう)や。  俺にとっては、そっちの方が、絶対に消したらあかん火で、必死で育っていかなあかん修行(しゅぎょう)の道やった。  そうなんやろうと思う。絵は遊びや。  おとんは、絵()いていいって言うてくれたけど、それは自分の時の無念(むねん)があったせいやろう。おとんは絵を()きたかったんや。  それでも無理やった。  おとんは絵師(えし)というより秋津(あきつ)若当主(わかとうしゅ)で、絵()いてる(ひま)なんかロクになかった。  絵の枚数(まいすう)も俺から見たら、ちょっとしかない。  その一作一作が渾身(こんしん)の作で、名作(めいさく)傑作(けっさく)()れやけど、それはたぶん一作一作をおとんが並々(なみなみ)ならぬ覚悟(かくご)()いてたせいやろう。  死ぬ気で()いた絵や。  俺が、なーんとなくのノリで書き()らしてきたユルい絵とは(ちが)う。  俺がほんまの本気で()いた絵なんて、今にして思えば、(とおる)の絵が最初や。  蛇神(へびがみ)暁月(ぎょうげつ)()でてるやつや。中西(なかにし)さんのホテルの地下室に(かざ)られている。  それから瑞季(みずき)の犬の絵や。それで最後や。  俺が一生懸命(いっしょうけんめい)(たましい)かけて()いたっていう絵は。  二枚かよ。寡作(かさく)ってなもんやないで。  あれ。いや、そうやないな。  そこまでではないかもしれへんけど、他にもあるわ。  水煙(すいえん)や。それから、不死鳥(ふしちょう)や。そして、俺はもう死ぬって覚悟(かくご)して()いてた、ヴィラ北野(きたの)で見た美しい(しき)巫覡(ふげき)たちの()りなす世界の素描(そびょう)や。  あれは全部、中西さんにあげてきたけど、素描(そびょう)やったのは時間も道具もなかったせいで、気持ちの上では本気で()いてた。  俺にもっと時間があって、この絵をちゃんとした作品として()きあげてから死ねたらな、と思っていた。無念(むねん)やわって。  それや!  俺は中西(なかにし)さんと約束(やくそく)してた。ホテルの絵を()いて、中西さんに(おく)るって。  それと引き換(ひきか)えに、あの(とおる)の絵を返してもらうんやった。  それやん。それを()かなあかんのやないか。  ()くもんないって言うてる場合やない。 「先生、思いついたわ。部屋貸してください。すぐ下絵()きたいし。アトリエの(かぎ)は?」 「えっ、なんや本間(ほんま)くん(きゅう)やな。君はいつも(きゅう)や。でも、わかってくれたんやな、俺の話……」  先生は、(うれ)しいみたいに、ほんわかトキメいてる目で俺を見た。 「(ちが)います。ちょっと思い出した事あって。早う()かな絵がどっかいってまうし早く! (かぎ)! ください!」  頭の奥底(おくそこ)仕舞(しま)()まれていた、あの時の絵の封印(ふういん)()けてもうて、俺の頭の中には数知(かずし)れない素描(そびょう)の絵が()い飛び、どれもこれもに一気に彩色(さいしき)が始まっていた。  やめてくれ、待って、一(まい)ずつしか()かれへん!  俺の右手は一本だけやし、俺は一人しか()いひんのやから……。

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