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29-29 アキヒコ

 えっとカギ(かぎ)って(あわ)てて(かべ)のキーフックに(なら)んでいる絵画室(かいがしつ)(かぎ)をジャラジャラ()って、(その)先生はいつも俺がほぼ自分用にせしめている部屋の(かぎ)(わた)してくれた。  そういう(きゅう)発作(ほっさ)の学生が来るのに(そな)えて、(かぎ)番人(ばんにん)である(その)先生は、いつもこの部屋で待っててくれてんのや。有難(ありがた)いこっちゃな。  たまたまトイレでも行ってて先生()いひんと、絵()くのに(かぎ)ないやん先生どないなっとんのや! って、発狂(はっきょう)しそうなってまう学生()るしな。(おも)に俺やけど。  でも俺だけちゃうんやで?  芸大(げいだい)はそういう病気のやつの巣窟(そうくつ)や。先生もご苦労さんやな。  俺は(かぎ)持って走った。勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)も付いてきた。付いてくるしかあらへんもんな。  何でか(その)先生もついてきたけど、付いてこられへんかった。  俺ら全力疾走(しっそう)やったし、巫覡(ふげき)(しき)の全力疾走(しっそう)に、いつも部屋で(すわ)ってるだけのおっさんが付いてこれるわけがない。 「先輩(せんぱい)、カツ(どん)は⁉︎」  勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)が聞いてきた。  なんやねんお前、(はら)減ってたんか。  そんなもん些事(さじ)や。大事(だいじ)の前の小事(しょうじ)や。  かつて神戸で神楽(かぐら)さんもそう言うてた。  物事(ものごと)には優先(ゆうせん)順位(じゅんい)があるんや。  俺にはいつも自分の絵が最優先(ゆうせん)や。そういう(くさ)った人格(じんかく)なんや。  第一まだ学食(がくしょく)開いてへん。十一時オープンや。  知ってるやろお前も学生やったんやから。  もう(わす)れてもうたんか? 三万年ぶりやもんな、学食(がくしょく)行くの。  俺は本館から別館へと学内を()()けて、いつも絵()いてる部屋へ行った。  (うす)(よご)れて年季(ねんき)の入ったコンクリート()ちっ(ぱな)しの部屋や。  冬寒く夏暑い劣悪(れつあく)環境(かんきょう)や。  それでもここでは朝から(ばん)まで絵()いて、ものも言わん、愛想(あいそう)もなくても、(だれ)も俺に文句(もんく)言わへん。  天国や。天使(てんし)もいてる。堕天使(だてんし)も……。  部屋に入って電気つけたら、ひゃ、て言うてトミ子が飛び上がった。  後ろ姿(うしろすがた)で顔は見えへん。ひらひらの白いローブ着て、(かみ)は長い()き毛の黒髪(くろかみ)やった。  頭には花かんむり。白い(つばさ)一対(いっつい)()えてる。  天使(てんし)や。光る輪っかみたいな後光(ごこう)もさしてる。 「亜里沙(ありさ)⁉︎」  俺まだ亜里沙(ありさ)言うてた。もう亜里沙(ありさ)でええことにしいひん?  亜里沙(ありさ)やったんや、()れてた(ころ)には。 「あ……暁彦(あきひこ)君。こんにちは。今日は天界(てんかい)からのご褒美(ほうび)を持ってきました。神は何でも貴方(あなた)の願いをお聞き(とど)けになります」  ありがたい光に(かく)れて顔はあくまでも見えへん。 「これ感謝状(かんしゃじょう)です。神戸(こうべ)一件(いっけん)、お疲れ様でしたって、うちの神様(しゃちょう)が」  あっどうも(おそ)()ります。俺は感謝状(かんしゃじょう)をトミ子から受け取った。  なんか金色の薔薇(ばら)とか百合(ゆり)とかの(かざ)(けい)がウネウネ()いてあって、ラテン語の(かざ)り文字が(なら)んでる、読めへん紙やった。 「願い事は何に……」 「紙くれ! 今すぐ! アホほどくれ!」  俺はトミ子に(いの)った。顔は見えへんなりに、あっけにとられた空気はあった。 「えーと、どんな紙がいいか……」 「日本画や! 俺は日本画科なんやし、そんなん当たり前やんか。卒制(そつせい)のな、下書きするんや!」  (あせ)ってる俺はほぼ怒鳴(どな)ってた。早く紙、紙紙神! 「えっまだこれから()くん? ちょ、何してたん? (へび)と遊んでるからそんなことになるんやんか」  トミ子も急に(あせ)り出した。 「ええから、分かってるから、堪忍(かんにん)やから紙!」  俺は昔の女を(おが)んだ。  神の感謝状(かんしゃじょう)がぺカーッと(はげ)しい光を(はっ)して、天井(てんじょう)から、空中から、(たき)のように紙が()ってきた。  あかん紙(いた)むから、神!  俺はとにかく飛びつく勢いで()いた。  ほんまの下絵は頭の中にもう出来上(できあ)がっている。俺はただのプリンターや。  頭ん中にある絵を、紙に出力(しゅつりょく)するだけのマシーンや。  とにかく出来(でき)る限りなる(はや)()く、()く、()いて、()き続けて、この世にはまだ無かった絵を、早くこの世のものにするんや。 「あんた、鉛筆(えんぴつ)(けず)りよし!」  トミ子が、ローブからむき出しの生脚(なまあし)もあらわに、仁王立(におうだ)ちで勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)指図(さしず)した。  美しい(あし)や、亜里沙(ありさ)……。 「トンボのモノ(ひゃく)やで。ピンピンに(とが)らせるんえ。何本でもあるだけ(けず)りよし!」 「分かってるわ、なんやねんお前は(だれ)や⁉︎」  知ってる事を言われたくないという、()み付く口調で言い返し、それでも瑞季(みずき)鉛筆(えんぴつ)(けず)りに行ってくれた。  がらんと何も無かった絵画室(かいがしつ)に、トミ子が素早(すばや)手際(てぎわ)で絵()支度(したく)を始めてくれてる。  初対面(しょたいめん)やったっけ? トミ子と瑞季(みずき)って、初対面(しょうたいめん)か?  もう分からへん。そうやったんかもな! この姿(すがた)ではお(たが)い初めてやったかもしれへんわ。  でもそんな事、全然(かも)うてられへんのやから。  二人は俺の都合(つごう)をよう知ってて、絵を()く準備は着々(ちゃくちゃく)(ととの)えられていってた。さすがや、ありがとう。  俺もう絵が仕上(しあが)がるまで、ここから一歩も出えへんで。(めし)も食わんし(ねむ)りもしたくない。()き終わるまで、()き続けたいんや。  ひいひい息切れした(その)先生が、やっと絵画室(かいがしつ)()()んできた。  ものすご(あせ)かいてて、顔真っ赤っかや。  先生、死ぬで。そんな(きゅう)全力疾走(ぜんりょくしっそう)したら(あぶ)ないで。中高年(ちゅうこうねん)やのに。

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