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29-30 アキヒコ

 俺は横目(よこめ)にそれに気づいたが、全然(ぜんぜん)気にせず絵を()いていた。  とりあえず草稿(そうこう)や。  どんな絵にするか別の紙に()いといて、現物(げんぶつ)の絵の下絵(したえ)()()かるのは次や。  俺の絵は連作(れんさく)みたいやった。  ヴィラ北野(きたの)で見た、神戸(こうべ)の街で見た、(ほね)や、(りゅう)や、(なまず)の絵やった。  絵の中に信太(しんた)()った。  蔦子(つたこ)さんも、啓太(けいた)変転(へんてん)した白い(おおかみ)に乗っていた。  歌う迦陵頻伽(かりょうびんが)が。ホテルには中西(なかにし)さんと神楽(かぐら)さんがおった。  俺が見た(みんな)が。  俺と(とおる)がおって、深い(やみ)の中で、固く()()うて口付(くちづ)けをしてた。  (やみ)の中でも光り溶け合(とけあ)うような、熱い絵やった。 「こ、これ、君、なんも見んと()いてるんか?」  ゼエゼエ言うてる(その)先生が、俺の()()らす絵を(ゆか)に見回しながら、しょうもないこと言うた。 「()()いてますよ」  鉛筆(えんぴつ)走らせながら、俺は答えた。  気がついたら(ゆか)()って()いてた。まあええか、それはどうでも。  絵の準備ができて、手の()いたトミ子が瑞季(みずき)に、赤い林檎(りんご)を、食べるう? 言うて(わた)してた。  あいつら全然(おどろ)かへんな。何を先生は(おどろ)いてんのやろう。 「こ、この絵を、卒制(そつせい)に出す気か?」  俺の絵、ところどころあかんかったかな。妖怪(ようかい)すぎたり、エグかったりエロかったりした。  (なまず)に食われる信太(しんた)の絵は(おそ)ろしすぎたし、()き合う俺と(とおる)の絵はどう見てもエロやった。  ほんまや、これあかんやつや。 「いや……ちょっと待って……」  紙のうじゃうじゃある中に、()まんように気をつけながらしゃがんで、先生は俺の絵をまじまじと見た。じいっと見てた。いつまでも見た。  それで、(こま)ったように、ぽつりと言うた。 「いい絵やわ。しかしやな……」  そう言ってまた(だま)る、(その)先生の言いたいことは分かる。  エロはまああかんことない。それも芸術(げいじゅつ)や。  そうやけど、それを別にしても、この絵は(こわ)い。  ぞうっとするほど、美しかったり、絶望的(ぜつぼうてき)なほど残酷(ざんこく)や。  でも、しょうがない。それが俺が見た、俺の知る世界の現実で、この目で見てきた、そのまんまの絵や。  妖怪(ようかい)(こわ)いって、先生ビビってた。  (こわ)いよな。俺かて(こわ)い。  だって、この世のものやない怪異(かいい)やもん。(こわ)くて当然やんか。  それでも、その絵から、先生は目が(はな)されへん。  それが自分の目では見えてないなりに、何の(うそ)でも作り事でもない、もう一つの現実やという事を、(たましい)のどこかで感じてくれているんか。  そうであってほしいって、俺は思うんや。いつも。  俺の絵を見て、その前に立ち()くし、何時間も(ついや)やす人が()ると、そう思う。  分かってくれたんか?  分かってくれって、(いの)ってる。 「これ、でも……ええんか? あまりにもセンセーショナルやで」  エロのこと言うてんのか、先生。  俺も(いや)や。あまりにも赤裸々(せきらら)や。  そうやけど、(うそ)で絵なんか()かれへんやん。  勝手(かって)()いてええんか知らん、こっちに()を向けたスーツ姿(すがた)中西(なかにし)さんの首に、(うで)を回してる神楽(かぐら)(よう)の目が、じっとこっちを見てる。  鉛筆(えんぴつ)画やからまだ色はないけど、青い目や。銀色がかって光る。  その目が、()えたように、見てる。  血が()しい、あるいは、愛が()しいっていう、欲情(よくじょう)した目や。  俺はその目を神戸(こうべ)で見たんや。失血死(しっけつし)しかけてた神楽(かぐら)さんを助けたやん。  息を()(かえ)した神楽(かぐら)さんは、(そば)におった中西(なかにし)さんに()きついて、こういう顔やった。  俺はそれを(こわ)いと思い、美しいと思った。  (たましい)(ふる)い付くような何かやった。  そういう瞬間(しゅんかん)やったから、絵に()いて残そうって思うたんやろうな。 「別に公開(こうかい)でけへんほどやないでしょ」  林檎(りんご)もろうて食うてた瑞季(みずき)が、(その)先生に言うた。  先生は瑞季(みずき)しか見えてへんみたいで、(となり)でニコニコしてるぽいトミ子のことは、なんも気づいて無かった。 「そうやけど…………上手(うま)すぎるんやで、これは…………」  心に致命傷(ちめいしょう)を負ったような顔をして、(その)先生は()を丸め、座り込(すわりこ)んだ。 「しょうがないです。先輩(せんぱい)、天才なんやもん」  しれっという瑞季(みずき)の言葉に、うんうんとトミ子が(うなず)いている。  ありがとう。そうやろか……。()れるわ。 「こんなな、こんな絵をやで、学生が出してみ? 大騒(おおさわ)ぎやで。これは……大学の卒業制作のレベルやないで、そんなん言うたらほかの学生に(おこ)られるけどやな」  ブツブツ言うて、(その)先生は深刻(しんこく)そうにビビった顔やった。 「あのな、本間(ほんま)くん。変なプレッシャーかけたないと思うて、(だま)ってたけど、世間(せけん)は君のことまだ(わす)れてはおらんで。例の事件、ちょっと前の出来事(できごと)や。卒制(そつせい)が実際に展示(てんじ)される(ころ)にはどうか分からへんけどやな、あの(ころ)、うるさかったマスコミの人らからも、卒制(そつせい)取材(しゅざい)依頼(いらい)が来てる。来るなとは言われへんのやんか、(だれ)でも見られるもんなんやから」

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