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29-31 アキヒコ
そうやろな。俺も入学前に、この大学の卒業制作展 を観 に行ったもん。どんな絵描 くんかなあって。
学生以外でも、いろんな人が見に来てた。アート系 の雑誌 や会社の取材 かてあるし、ネットでもこんな展示 やでって報道 はされてた。
秘密 で描 いて、内輪 で眺 める絵の展示 やない。
それは世間 に晒 される絵や。
「君、ええのか、これ。皆 に見られて」
先生は、どれとは言わんかった。全部のことを言うてんのかも知れへん。
でも俺は、俺と深い接吻 に耽 る、苦悶 したような顔の亨 の絵を見て、嫌 やなと思うた。
これを皆 に見せる勇気は、俺にはないかも知れへん。
お前はこれを、どこで見たんや? なんでこんなもんを描 くんや。
血みどろで死んでいく、骨 に食われる式 や、巫覡 の絵を見て、お前はほんまはあの日、由香 ちゃんを殺 ったんやないかと、誰 かは思うかもしれへん。
そうでなくても、苑 先生のように、怖 いというかもしれん。
お前の絵は怖 い。見ていて不快 やと。
「他には案 はないんか?」
後ろめたそうに、苑 先生は言うた。
先生。俺の絵、あかん?
急に、何や、自分の中に燃えていた火が、熾火(おきび)ぐらいに大人しいなってもうて、俺はふっと我 に返った。
そうやな。こんな絵描 いて、誰 かが分かってくれるわけない。
今までも皆 、そうやったやん。
お前は化けモン。怖 いって、言うて、俺のこと薄気味悪 そうに見てたやん。
きっとまた、そうなるんやで。
「他に案はないです」
つまり俺は萎 えたんや。
なんで美大 の教授 がやで、学生の筆 を折るんや、苑 先生。
ヘタレやなあ……。あんたのその一言で、俺がどんだけ苦しんだか。
「そうか。そんなら、これでもええんやけど」
ボソボソ言う苑 先生を床 に放 ったらかして、俺は立ち上がった。
「瑞季 。カツ丼 食いにいこか」
「えっ。絵は? もう描 けたんですか?」
「今日はもうええわ。支度 させたのに済 まんかったな……」
俺は自分を見守っている、白い天使 に言うてた。
苑 先生は、君、誰 と話してるんやっていう、怯 えた顔で俺を見てた。
「ええよ、暁彦 君。これはうちが片付 けて、大事 にしもうとくから。また描 こうって思うたときに、ちゃんと続きが描 けるように」
トミ子。お前はええ女やった。結婚 しようって思うてた。ほんまに。
美大 四回生の餓鬼 やったのに。お前やったら俺を一生支 えてくれそうやって、甘 えてて。
でももうお前はこの世の者 やないし、初めから違 うかったらしいけど、でも今も俺を支 えてくれてる。
どないしよう。俺、不甲斐 ないな。
ほんまの自分を人に見られるのが恐 ろしいなってもうて、嘘 で誤魔化 せへんかなって、思うてる。
適当 で無難 で、そこそこ上手 い絵描 いて出しとけいう話か、先生。
これが俺の最後の作品になるかも知れへんから渾身 の絵を描 けって言うたん、先生やん。
これが俺の渾身 の絵や。
俺はもう死ぬって思うてた時に、自分が生きてた証 に、描 いて残したかった絵や。
それがあかんていうんやったら、俺には描 ける絵なんか一枚 もあらへんわ。
「先輩 ……俺、あの絵好きやで。先輩 の絵は全部好きや。そりゃあ、ちょっと見てて怖 いのとか、あるけど……それでも、そういうもんでしょ、ほんまもんの芸術って。心を抉(えぐ)るもんやん?」
俺、お前を何か抉(えぐ)ったか?
言いながらついて来る勝呂 瑞季 を、俺は無言で振り返 っていた。
瑞季 は見たらあかん映画 を見てもうてフラフラやみたいな足取りやった。
お前なんで傷 ついてんのや。
俺もちょっとフラフラやねんけど。
学食で、食券買って、俺らはフラフラのまま、受け取りカウンターのおばちゃんのとこに行った。
こんにちは、って死んだ顔で挨拶 したら、白エプロンに三角巾 してるいつものおばちゃんが、にこにこして、あらあ本間 くんやないのー、と朗 らかに言うてくれた。
俺、学食のおばちゃんにモテんねん。なんでか知らんけど、天麩羅 ソバにサービスの天かすが異常 に入ってて、むしろ胸焼 けしてかなわんかったりする……。
「ごめんやでえ、今、夏休みやし、カツ丼 ないねん! 券売機 の設定間違 えてて注文できてもうたなあ。ごめんなあ、差額 の返金 するし、うどんでいい?」
うどん……。
俺と瑞季 はさらに死にそうな顔でおばちゃんを見た。
こんな気分やのに、カツ丼 までないんか。
うどんやなかった。今はカツ丼 を食う気で来たんや、俺らは。
「うどんでいいです……」
「ネギいっぱいいれていってね!」
ざくーって青ネギ の小口切 りが入れてある鉢 にスプーンを突 っ込 んで、おばちゃんは山盛 り入れてくれた。
ネギが……。あふれるほどのネギが。
「就活 どうやー? 頑張 るんやで!」
おばちゃんに見守られながら、ネギで真っ青なうどんを食うて、俺と瑞季 は無言 やった。
話せる話が何もなかったし、話したい気分でもなかった。
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