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29-32 アキヒコ

 学食(がくしょく)を出ると、キャンパスには誰(だれ)もいなくて、がらんとしてた。  それはそれで都合(つごう)が良かった。誰(だれ)かに会(お)うて、勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)がなぜここに居(お)るんか、説明(せつめい)を求められても困(こま)る気がした。  由香(ゆか)ちゃんが、もういない。ちょっと前まで俺らはいつもここで三人で絵を描(か)いていて、毎日顔を付き合わせてた。  久々(ひさびさ)に学校来ると、度々(たびたび)俺の腕(うで)にぶら下がってきていた馴れ馴(なれな)れしい由香(ゆか)ちゃんの重みが、急に亡(の)うなってもうて、何かが足りひんという喪失感(そうしつかん)が湧(わ)いた。  俺は由香(ゆか)ちゃんのことを、別段(べつだん)そう好きではなかった。  俺がうっとり来るような美貌(びぼう)の女の子でもないし、お淑(しと)やかな大和撫子(やまとなでしこ)でもなく、はんなりした京女(きょうおんな)でもない。  賑(にぎ)やかで元気いっぱい、あけすけな、大阪(おおさか)の女やった。  由香(ゆか)ちゃんが、ある時ここで、先輩(せんぱい)、うち先輩(せんぱい)の彼女(かのじょ)になりたいなと冗談(じょうだん)としか思えへん口調(くちょう)で言うて、俺に抱(だ)きついてきたことがあった。  ただの悪(わる)ノリした大学生の後輩(こうはい)に、じゃれつかれてる先輩(せんぱい)の図(ず)でしかなかったけど、その時、CG室からの帰り道で、あたりはもう黄昏(たそがれ)ていて、夕日を浴びて歩く勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)は居処(いどころ)がないという悲しい顔をしてた。  由香(ゆか)ちゃんは、悪気(わるぎ)ないふうに俺の腕(うで)に絡(から)み、ねえねえ先輩(せんぱい)、彼女(かのじょ)にするなら、うちと瑞季(みずき)ちゃんと、どっちがええと思います? と明るい笑顔で聞いた。  俺は悩(なや)むふりをして、うーんそやな、勝呂(すぐろ)かな! と言うた。  そしたら、えー何でやねんと、絵に描(か)いたようなコケ方(かた)をして、由香(ゆか)ちゃんはさらに可笑(おか)しそうにけらけら笑い、俺らはいつもと変わらず叡電(えいでん)に乗って帰ったんやった。  あの時の勝呂(すぐろ)の、抑(おさ)えたような嬉(うれ)しげな照(て)れた顔。  俺はただ、振(ふ)られた冗談(じょうだん)に予定調和(よていちょうわ)の答えを返しただけやったんか、それとも本音(ほんね)を言うたんか。  あるいは、由香(ゆか)ちゃんに何か、操(あやつ)られるように、言うべきでない言葉を言わされてたんか。  今はもう、その由香(ゆか)ちゃんが死んで、俺らには言葉もない。  会話もなきゃ、しょうもない話に笑うこともない。  またあの頃(ころ)と同じ夕日の中に、由香(ゆか)ちゃんの死体が出たという、事件現場が遠目(とおめ)に見えて、俺と瑞季(みずき)はそこへ近づく気力(きりょく)もなかった。  ただ、どちらからともなく足を止め、遠目(とおめ)にそれを見て、あの場所やったなと、それぞれの心の中で、思うただけやった。  手を合わせて祈(いの)るべき場所やった。  俺らは手を合わせずに祈(いの)ってた。  由香(ゆか)ちゃん。俺らが殺した。二人して、君を死なせた。それはただ、若(わか)い日の過(あやま)ちやったと言うには、あまりにも残酷(ざんこく)な出来事(できごと)やった。  由香(ゆか)ちゃんの幽霊(ゆうれい)が出ると、学生たちはもう噂(うわさ)してるそうや。  その種(しゅ)のことは、大学ではすぐ怪談(かいだん)になる。  赤い服着た女の子が、犬に追いかけられて逃(に)げて来るんを見た。  赤い服やと思うたら、それは犬に食われて血まみれなんやって。  その女の子に追いつかれたやつは、自分も死ぬて、そんな噂(うわさ)がまことしやかに走り、人を恐怖(きょうふ)させる。  無念(むねん)の死、つらい凄惨(せいさん)な死を迎(むか)えた由香(ゆか)ちゃんが、俺ら皆(みんな)を恨(うら)んでる。  楽しい大学生活をもう続けることがでけへんようになった彼女(かのじょ)が、のうのう生きて、絵描(か)いてる連中(れんちゅう)を怒(おこ)ってるって、皆(みんな)、心の隅(すみ)で少し、後ろめたかったんやろうか。  俺は由香(ゆか)ちゃんの幽霊(ゆうれい)を見へん。いてへんのやと思う。  トミ子の幽霊(ゆうれい)はおったけど、由香(ゆか)ちゃんは化(ば)けて出ない。  たぶん、化(ば)けて出るにも霊力(れいりょく)が必要で、ごく普通(ふつう)の人やった由香(ゆか)ちゃんは、無念(むねん)のうちに死んでもうても、もう普通(ふつう)に冥界(めいかい)にいってもうたんやと思う。  そうでなきゃ、この世は幽霊(ゆうれい)だらけや。  無念(むねん)でない死はない。皆(みんな)、死ぬときは大抵(たいてい)、死にとうない無念(むねん)やと思うてるもんや。だからって全員が幽霊(ゆうれい)になれるわけやない。  その無念(むねん)を察(さっ)して噂(うわさ)する連中が、由香(ゆか)ちゃんの幽霊(ゆうれい)を作るんや。  怖(こわ)くて、出会いたくない幽霊(ゆうれい)やけど、それは皆(みんな)の祈(いの)りでもある。  あんな若(わか)くて元気やった、夢(ゆめ)も野望(やぼう)もあった娘(こ)が、犬に食われて死ぬやなんて、そしてそれっきりやなんて、皆(みんな)は信じたくなかったんやろ。  化(ば)けて出るぐらい、するはずやって、皆(みんな)は信じたかった。  その信心(しんじん)が強ければ、由香(ゆか)ちゃんがここでほんまに化(ば)けて出る日が来るんかもしれへん。  もし、そんな日が来たら、俺は瑞季(みずき)と、彼女(かのじょ)に手をついて詫(わ)びよう。彼女(かのじょ)の墓前(ぼぜん)でもそうしたように、何度でも詫(わ)びなあかん。  堪忍(かんにん)や由香(ゆか)ちゃん。君は死んで、もうこの世におらんのに、俺は、勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)は、のうのうと生きていく。たぶん永遠に生きていく。  そんなこと許(ゆる)せへんて思ったら、いつでも化(ば)けて出てきてほしい。何遍(なんべん)でも俺は君に詫(わ)びよう。  出来(でき)る限(かぎり)りのことをする。君がまた、絵を描(か)く人に生まれ変わって、今度こそ好きな絵を一生描(か)けるように、出来(でき)る限(かぎ)りのことをする。

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