824 / 928

29-32 アキヒコ

 学食(がくしょく)を出ると、キャンパスには(だれ)もいなくて、がらんとしてた。  それはそれで都合(つごう)が良かった。(だれ)かに()うて、勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)がなぜここに()るんか、説明(せつめい)を求められても(こま)る気がした。  由香(ゆか)ちゃんが、もういない。ちょっと前まで俺らはいつもここで三人で絵を()いていて、毎日顔を付き合わせてた。  久々(ひさびさ)に学校来ると、度々(たびたび)俺の(うで)にぶら下がってきていた馴れ馴(なれな)れしい由香(ゆか)ちゃんの重みが、急に()うなってもうて、何かが足りひんという喪失感(そうしつかん)()いた。  俺は由香(ゆか)ちゃんのことを、別段(べつだん)そう好きではなかった。  俺がうっとり来るような美貌(びぼう)の女の子でもないし、お(しと)やかな大和撫子(やまとなでしこ)でもなく、はんなりした京女(きょうおんな)でもない。  (にぎ)やかで元気いっぱい、あけすけな、大阪(おおさか)の女やった。  由香(ゆか)ちゃんが、ある時ここで、先輩(せんぱい)、うち先輩(せんぱい)彼女(かのじょ)になりたいなと冗談(じょうだん)としか思えへん口調(くちょう)で言うて、俺に()きついてきたことがあった。  ただの(わる)ノリした大学生の後輩(こうはい)に、じゃれつかれてる先輩(せんぱい)()でしかなかったけど、その時、CG室からの帰り道で、あたりはもう黄昏(たそがれ)ていて、夕日を浴びて歩く勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)居処(いどころ)がないという悲しい顔をしてた。  由香(ゆか)ちゃんは、悪気(わるぎ)ないふうに俺の(うで)(から)み、ねえねえ先輩(せんぱい)彼女(かのじょ)にするなら、うちと瑞季(みずき)ちゃんと、どっちがええと思います? と明るい笑顔で聞いた。  俺は(なや)むふりをして、うーんそやな、勝呂(すぐろ)かな! と言うた。  そしたら、えー何でやねんと、絵に()いたようなコケ(かた)をして、由香(ゆか)ちゃんはさらに可笑(おか)しそうにけらけら笑い、俺らはいつもと変わらず叡電(えいでん)に乗って帰ったんやった。  あの時の勝呂(すぐろ)の、(おさ)えたような(うれ)しげな()れた顔。  俺はただ、()られた冗談(じょうだん)予定調和(よていちょうわ)の答えを返しただけやったんか、それとも本音(ほんね)を言うたんか。  あるいは、由香(ゆか)ちゃんに何か、(あやつ)られるように、言うべきでない言葉を言わされてたんか。  今はもう、その由香(ゆか)ちゃんが死んで、俺らには言葉もない。  会話もなきゃ、しょうもない話に笑うこともない。  またあの(ころ)と同じ夕日の中に、由香(ゆか)ちゃんの死体が出たという、事件現場が遠目(とおめ)に見えて、俺と瑞季(みずき)はそこへ近づく気力(きりょく)もなかった。  ただ、どちらからともなく足を止め、遠目(とおめ)にそれを見て、あの場所やったなと、それぞれの心の中で、思うただけやった。  手を合わせて(いの)るべき場所やった。  俺らは手を合わせずに(いの)ってた。  由香(ゆか)ちゃん。俺らが殺した。二人して、君を死なせた。それはただ、(わか)い日の(あやま)ちやったと言うには、あまりにも残酷(ざんこく)出来事(できごと)やった。  由香(ゆか)ちゃんの幽霊(ゆうれい)が出ると、学生たちはもう(うわさ)してるそうや。  その(しゅ)のことは、大学ではすぐ怪談(かいだん)になる。  赤い服着た女の子が、犬に追いかけられて()げて来るんを見た。  赤い服やと思うたら、それは犬に食われて血まみれなんやって。  その女の子に追いつかれたやつは、自分も死ぬて、そんな(うわさ)がまことしやかに走り、人を恐怖(きょうふ)させる。  無念(むねん)の死、つらい凄惨(せいさん)な死を(むか)えた由香(ゆか)ちゃんが、俺ら(みんな)(うら)んでる。  楽しい大学生活をもう続けることがでけへんようになった彼女(かのじょ)が、のうのう生きて、絵()いてる連中(れんちゅう)(おこ)ってるって、(みんな)、心の(すみ)で少し、後ろめたかったんやろうか。  俺は由香(ゆか)ちゃんの幽霊(ゆうれい)を見へん。いてへんのやと思う。  トミ子の幽霊(ゆうれい)はおったけど、由香(ゆか)ちゃんは()けて出ない。  たぶん、()けて出るにも霊力(れいりょく)が必要で、ごく普通(ふつう)の人やった由香(ゆか)ちゃんは、無念(むねん)のうちに死んでもうても、もう普通(ふつう)冥界(めいかい)にいってもうたんやと思う。  そうでなきゃ、この世は幽霊(ゆうれい)だらけや。  無念(むねん)でない死はない。(みんな)、死ぬときは大抵(たいてい)、死にとうない無念(むねん)やと思うてるもんや。だからって全員が幽霊(ゆうれい)になれるわけやない。  その無念(むねん)(さっ)して(うわさ)する連中が、由香(ゆか)ちゃんの幽霊(ゆうれい)を作るんや。  (こわ)くて、出会いたくない幽霊(ゆうれい)やけど、それは(みんな)(いの)りでもある。  あんな(わか)くて元気やった、(ゆめ)野望(やぼう)もあった娘(こ)が、犬に食われて死ぬやなんて、そしてそれっきりやなんて、(みんな)は信じたくなかったんやろ。  ()けて出るぐらい、するはずやって、(みんな)は信じたかった。  その信心(しんじん)が強ければ、由香(ゆか)ちゃんがここでほんまに()けて出る日が来るんかもしれへん。  もし、そんな日が来たら、俺は瑞季(みずき)と、彼女(かのじょ)に手をついて()びよう。彼女(かのじょ)墓前(ぼぜん)でもそうしたように、何度でも()びなあかん。  堪忍(かんにん)由香(ゆか)ちゃん。君は死んで、もうこの世におらんのに、俺は、勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)は、のうのうと生きていく。たぶん永遠に生きていく。  そんなこと(ゆる)せへんて思ったら、いつでも()けて出てきてほしい。何遍(なんべん)でも俺は君に()びよう。  出来(でき)(かぎり)りのことをする。君がまた、絵を()く人に生まれ変わって、今度こそ好きな絵を一生()けるように、出来(でき)(かぎ)りのことをする。

ともだちにシェアしよう!