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29-36 アキヒコ

 ()れてんのかな。とにかく行くで。絶対行く。  ここまで来たら俺も、そのパルテノン神殿(しんでん)の心温まる再会(さいかい)(おが)んでからしか帰られへん。  良かった一件落着(いっけんらくちゃく)やって、思いたいんや。  大阪(おおさか)のことも、俺の中でやっと過去になる。  (わす)れがたい、(つら)い過去でも、過去は過去。(むね)にしまって、先へ進んでいけるやんか。  そやのに犬はまた京橋(きょうばし)で歩かんようになった。全然動かん。どないしたんや瑞季(みずき)。  帰る人の(なみ)の中で、急に立ち止まったまま、大阪(おおさか)の夜を見上げて、瑞季(みずき)(むずか)しい顔をした。  行こう、と、俺はあいつの前に立ち、(うなが)したんやけど、瑞季(みずき)はじっと俺をフードの(おく)から見るだけで、その目も爛々(らんらん)と暗く光る、(よこしま)な者の目やった。 「先輩(せんぱい)、やっぱ()めよ。俺とここで、ホテルいって()ませんか。ほんで帰ろ。また京阪(けいはん)乗って、出町柳(でまちやなぎ)まで(もど)りましょう」 「何言うてんねんアホか」  俺はすっかり動揺(どうよう)して、瑞季(みずき)突然(とつぜん)(さそ)いに内心(ないしん)ジタバタしていた。  そんなこと言うやつやったか、お前が。  俺の手を(にぎ)るのにもドキドキするような(やつ)やったのに。  何がどうで、そうなるんや一体。 「俺いつも、ここで適当(てきとう)相手(あいて)見つけて、どっか(さそ)って()てました。帰りに(さそ)うと、結構(けっこう)簡単(かんたん)に引っかかるねん。おっさんでも、学生でも(だれ)でも……。(みな)、最初はびっくりするけど、そうそう(ことわ)ってきませんよ。俺、無料(ただ)やしな、それに、可愛(かわい)いでしょ?」  自分でそう言うて、瑞季(みずき)は俺に自分の顔を見ろというふうに、軽く(あご)をあげてみせた。  (たし)かに、可愛(かわい)い。愛玩(あいがん)動物みたいな可愛(かわい)さが、お前の容貌(ようぼう)にはみなぎっている。  それは元が愛玩犬(あいがんけん)で、生まれつきそういう犬やからやろ。 「ほんで、ここから家に電話するんです。お母さん、友達に(さそ)われたから、そいつん()で勉強するわ。明日は直接(ちょくせつ)、学校行くわ。ワガママ言うて、ごめんな、って」  ()()え駅の雑踏(ざっとう)(なが)め、瑞季(みずき)は遠い視線(しせん)やった。  大阪(おおさか)の人らは、(みな)すごく(いそ)いでる。ガツガツ歩いて行くあの顔や、この顔が、声をかけたら立ち止まるとは、到底(とうてい)思えへんほどやった。 「そしたらな、(えら)いわねえ瑞季(みずき)ちゃん、言うて、それで(しま)いですよ。俺が(だれ)()ようが、どこで何食うてようが、テストの点数良くて、偏差値(へんさち)高けりゃ、それでええんです。うちの親は」  そんな(わけ)ない。お前のおかん、泣いてたで。ほんまやで瑞季(みずき)。  アホ言うとかんで、歩いてくれ。パルテノン神殿(しんでん)へ。 「正直、中一ぐらいからですよ。俺、そういう(やつ)なんです、ずっと。それやからあかんのかな。先輩(せんぱい)、そういうのは好きやないんですよね? もっと……なんて言うか、キラキラした、神様みたいなんがええんや」  半泣(はんなき)きの目で、瑞季(みずき)は俺を見た。  お前も十分キラキラしてるで。今ものすご、目キラキラやで。  それは何や。まさか俺を(さそ)ってんのか?  ほんま(たの)むしやめてくれ。俺の理性(りせい)限界(げんかい)来たら、どうなるんや。  今夜ここでお前にキャッチされるんは俺なんか。勘弁(かんべん)してください本当に!  俺にはもう配偶者(はいぐうしゃ)がおるんや、水地(みずち)(とおる)や。もう帰りたい。 「ここで人食うてる間ずっと、(だれ)か助けてくれへんかなって、思ってたんやけど、結局(だれ)も助けてはくれなかったですね」  俺も今そう思うてる。瑞季(みずき)。助けて。  行くか、(もど)るか、どっちかしよう。  この人混(ひとご)みのど真ん中で()まれて、迷惑(めいわく)やでって、アホか兄ちゃんて、大阪弁(おおさかべん)舌打(したう)ちされ続けているのはつらい。  俺、知らんかった。京都はソフトな(まち)や。  邪魔(じゃま)やなあってイケズ言われることはあっても、ここまでストレートに(おこ)られたりはしいひん。その方が俺には()うてる。 「先輩(せんぱい)、もう一回だけ言うけど、これから俺とラブホいって一発やりませんか?」 「(いや)や! アホ! 家帰れ言うてるやろ⁉︎ どういうつもりか知らんけど、そんな(やす)っぽいことすんな。お前はもっとマシな(やつ)やろ。ちゃんと大学いって絵()いて卒業して働け!」  俺が怒鳴(どな)ると、道行く大阪人(おおさかじん)が何人か振り向(ふりむ)いて、あいつ何言うとんのや、やかましいわという顔をした。  瑞季(みずき)がうふふと(ふく)み笑いして、俺を見つめた。  そうしてると、ほんまに可愛(かわい)い。こいつはなんて可愛(かわい)い犬なんや。ほんまに(こま)る。 「先輩(せんぱい)って、そう言うてくれるし、ほんまにええ人ですね。好きやわ……。そういう人こそ()いて()しいんやけど、俺と()(やつ)はクソばっかりやねん」  ポケットをゴソゴソして、瑞季(みずき)は何かを取り出した。  チャラチャラ()金属音(きんぞくおん)とともに、瑞季(みずき)は俺にクリスタル(せい)のキーホルダーのついた鍵束(かぎたば)を見せた。 「まだ持ってるんです、家の(かぎ)」  さすがはパルテノン神殿(しんでん)(かぎ)や。キーホルダーが七色の光を(はな)ってる。 「行こか、ついに決心ついたんやったら」 「お待たせして悪かったですね。一緒(いっしょ)に行ってもらってもええんですか?」  そのために来たんやないか。お前のご両親(りょうしん)にも挨拶(あいさつ)せなあかん。  どうも京都の(おが)()坊々(ぼんぼん)です、息子さんをうちに下さい、式神(しきがみ)契約(けいやく)させてもらいましたんで、って。

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