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29-38 アキヒコ

 そうこうするうち、ガツンとすごい音がして、ゼウスのいる(まど)に、思い切り(なぐ)られたか()られたかしたような、()せた毛並(けな)みのマルチーズが()()んできた。血まみれやった。  ヒッと短い声あげて、瑞季(みずき)がそれを見ていた。  俺も見た。ほんで(さと)ったんや。  うちの親は、まとも。俺はずっと、幸せやった。  たとえうちが普通(ふつう)ではない(おが)()で、おとんとおかんが兄妹(きょうだい)で、宇宙人(うちゅうじん)みたいな御神刀(ごしんとう)()()かれた血筋(ちすじ)でも、この家よりはマシ。ずっとマシや。  俺はずっと、愛されて育った。俺が死んだら親は泣いてくれた。何不自由(なにふじゆう)なかった。  親に(なぐ)られたことなんか、いっぺんもない。  俺が友達に(いじ)められ、怪我(けが)して帰ると、おかんは本気で(おこ)ってくれた。  おとんかて、俺が死ぬていうとき、命がけで助けてくれたやないか。  そんなん、当たり前やって、俺はどこかで思ってたんや。  親やもん。俺を愛してて当たり前って。  そやけど、そんなことないな。それも一種(いっしゅ)奇跡(きせき)なんやわ。 「帰るの(いや)や……」  泣きそうな声で、瑞季(みずき)(うめ)いた。 「帰らんでいい。俺ん()がお前の(いえ)や!」  だって他に何て言う?  俺は瑞季(みずき)の手を引いて、つづら折りから引きずり出した。  瑞季(みずき)は泣きながら、手に持っていたクリスタルガラス付きの鍵束(かぎたば)を、ゼウスに向かって投げつけていた。 「畜生(ちくしょう)! お前が地獄(じごく)()ちりゃええんや!」  ゼウスが粉々(こなごな)(くだ)け散り、(おどろ)いたらしい本物のほうの(かげ)が、ゆらりと近づいてくるのが見えた。  瑞季(みずき)は今度は小声ではない悲鳴(ひめい)を上げて、俺の方に()げて来る。  その()きついてくる小柄(こがら)な体を、もうどうしょうもなくて、オレは()きしめた。そして走った。  もう前もろくに見てへん瑞季(みずき)(ころ)びそうになるのを、何度も助けながら、めちゃめちゃ走って、パルテノン神殿(しんでん)(あと)にした。  瑞季(みずき)、ここにはもう、お前は一生帰らんでいい。永遠にや。  お前は俺ん家の犬。そうするより他にない。  あんなん見てもうた後で、家帰れって言えるほど、俺は(おに)やない。  こいつが地獄(じごく)()えられたのって、()れてもうてたからやないか。  元々瑞季(みずき)地獄(じごく)に住んでたんや。三万と十八年。  それだけ()れば、もう、ええやん……。  俺と瑞希(みずき)は一言も(しゃべ)らず、また京阪(けいはん)特急に乗って、京都に帰った。出町柳(でまちやなぎ)のマンションへ。  俺は今日、一体何しに行ったんや。瑞希(みずき)(きず)をただ(えぐ)るためか。  (えぐ)りっぱなしの一日やった。  (とおる)から、携帯(けいたい)のメッセージへの返信はなく、マンションの玄関(げんかん)で、お前にはほとほと(あき)れたという蒼白(そうはく)の顔で、あいつは俺と瑞希(みずき)出迎(でむか)えた。  たぶん少々……いや、かなり、(おこ)ってはいたんやろうけど、俺が連れて帰ってきたズタボロの犬を見て、あいつは何かを(さっ)してくれたらしい。  何も言わんといてくれた。  何か言うたんは水煙(すいえん)のほうや。  どこ行ってたんやから始まり、水煙(すいえん)は俺から一部始終(いちぶしじゅう)を聞き出した。  何でか俺は、ソファに(すわ)って足を組み、頬杖(ほおづえ)ついてる水煙(すいえん)の足元に正座(せいざ)して話し、ほぼ死んだような顔の瑞希(みずき)も、その後ろに(すわ)ってた。  話を聞いて、水煙(すいえん)はため息をつき、俺を見た。 「それで? お前はその(おに)(ほう)って帰ってきたということやなあ、アキちゃん」  それは間違(まちが)いやった、と言わんばかりの口調(くちょう)やった。  俺には言葉もなくて、代わりに(とおる)反論(はんろん)した。 「それ以外にどないすんねん。言うたらアレやけどや水煙(すいえん)、そんな(くず)、世の中になんぼでも()るで。今さら何やねん……俺らに関係あらへんやないか」  (とおる)はソファの()(うら)からもたれ、水煙(すいえん)の後ろで話を聞いてた。  なんぼでも()るか、そうかもしれへん。  ただ俺が、そういう世界からずっと遠くに()ったというだけのことなんやろう。 「関係ないことないで、(とおる)。この犬はうちの(しき)や」  水煙(すいえん)は、つんと気位(きぐらい)高そうに(あご)をあげて、背後(はいご)にいる(とおる)に言うた。 「お前もうちの筆頭(ひっとう)やというんやったらなあ、もうちょっとそれらしい考え方をせえ」 「それらしいって?」 「うちの子が世話(せわ)んなったなあって、その(おに)挨拶(あいさつ)したれ」  水煙(すいえん)はにこやかに言うて、どうも、(おこ)ってるようやった。  俺はもう(きも)が冷えてもうてて、(おこ)るどころやない。  瑞希(みずき)を連れ帰るだけで全力を使い()たしてた。 「俺はな、(おに)見逃(みのが)せへん性分(しょうぶん)でなあ。特に子殺(こごろ)しと、親不孝(おやふこう)虫唾(むしず)が走るんや」  にこやかなまま、水煙(すいえん)(つぶや)いて、何か思案(しあん)するふうやった。  そして、その話はそれきりやと思うてたのに、水煙(すいえん)はうちの実家(ひっか)の、悪阻(つわり)でヘタってるおかんに代わり、神戸(こうべ)蔦子(つたこ)さんに連絡(れんらく)して、何やら指示(しじ)を出したようやった。  後日(ごじつ)蔦子(つたこ)さんから人形(ひとがた)の紙が飛んできて、万事(ばんじ)、うまいこと手配(てはい)しましたえ、と話した。  それからの展開(てんかい)はあっという間で、瑞希(みずき)は自分の親を(うった)えた。  法廷(ほうてい)でやで。  相手は(おに)でも人間やから、刀持っていって()るという(わけ)にはいかへん。  妖怪(ようかい)やったらそれでもええんやけどな。

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