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29-46 アキヒコ
何をするわけではないけど、ふと家で二人きりになった瞬間 、大学でも、叡電 の中ですら、あいつは俺の前に立って、先輩 、抱 いてください今日、お願いしますって言う。
あいつは知ってんのや。俺がそういう気を隠 してることを。
俺が平気やないって、よう知ってて、ウサギの穴 の前で何日でも待つ猟犬 みたいに、辛抱 できひんようになった俺が飛び出してくるのを待っている。
そういう脈 あるって思われてんのや。悔 しいわ……。
なんてかしこい犬や。俺はあいつと二人きりになるのが怖 い。
アキちゃん大丈夫 やろか? 拒 めると思う?
そうやないやろ。俺もさすがに分かってきたわ。いろいろやらかした後やもん。
あいつが本気でかかってきたら、俺は頭からバリバリ食われる。そういう気がして、怖 いんや。
会いたない、今は。
亨 をつらい目にあわせんで済 むよう、細心 の注意を払 いたいんや。
途中 で干 されて、今の俺はまたとないほどちょろいウサギや。
今行くのは食うてください言うてるようなもんや。そんなことしたくない。
たとえあいつが傷 ついてるって知ってても。俺には今できることは何もないやんか。
追いかけていって、すまん諦 めてくれって、土下座 でもするか?
そんなんで済 むなら、とっくにしてるわ……。
「行ってやり、アキちゃん。服着せたるやん」
しゃあないなっていう声で、亨 が言うた。それでほんまに俺の服を着せ始めるもんやから、もうアホかと思た。
お前はアホか亨 。人が良すぎるわ。
それで泣くのはお前なんやで。俺も泣く。
「嫌 や、行ってもできることなんかない」
「でもまあ行ってみ。行けば何か思いつくよ。ノープラン作戦 や」
それお前が龍 に使 うたやつやんか。
それしかないんか、亨 。それしか……ない?
もう嫌 や。俺ほんまに嫌 やったのに、さあ行ってこいて蛇 に家から追い出されてもうた。
瑞季 がどこ行ったかなんて分からんのやで、正直。
部屋のドアからエレベーターまでの通路には、瑞季 が落っことしていった画帳 があって、バラけた画用紙 が散 らばって見えていた。
あいつも紙に手描 きの絵を描 くんやな。
そら描 くか。画学生 なんやし、CG科の奴 だって、別に手で絵を描 かれへん訳 やない。
瑞季 が何描 いてんのか、見る気で拾 ったわけやなかった。見えたんや。
あいつ、俺と亨 の絵を描 いてたわ。
胸 を抉(えぐ)るような絵や。あいつにとっては、そうやったやろう。
俺はこの一ヶ月、慎 み深く生きてきたつもりやった。亨 といちゃつくのかて隠 れてやった。それで辛 かったんやんか。
そうやけど、それは思い込みやったんやろな。
瑞季 が見ていた、あいつの世界では、俺と亨 は十分すぎるほど、いちゃついてた。
朝、コーヒー入れてくれた亨 の手を、おとんがくれた鬼道 の本を読みながら、俺が握 ってた。
抱 き合 うてキスしてた、この部屋に帰ってきてすぐの日の、俺と亨 。
並 んで歯磨 いてる俺が、亨 の腰 を抱 き寄 せていた。
でもそれは一瞬 やったはずや。
確 かに身に覚 えはある。そういえばそうや。
でも別に、瑞季 に見せつけようとして、やってた訳 やない。無意識 や。
それがあかんのか。無意識 やから、あかんのか。
無意識 にでも、俺の視線 は亨 を見てる。
いつも無意識 に俺を見ている瑞季 には、それが分かるんやろう。
俺を見ろって思うんやろう。よそでやれって思うんやろう。
水煙 もそう言うてたやん。前に、神戸で。
それが無理なら、俺をどこかに片付 けてくれって。
もう俺と亨 が戯 れ合う姿 を見んでもええように、蔵 でも物置 でもいい、見んで済 むどこかに片付 けてって。
瑞季 をどこかに片付 けることはできひん。水煙 も、今となってはそうや。
あいつはもう、同じ文句は言わへん。何も言わんようになった。
言えば俺が苦しいって、あいつは知ってんのやろな。
別に俺だけが、つらい訳 やない。皆 、同じや。
こんなことはもう、やめよう。もう、無理や。俺にはもう無理。
おとんみたいに何年も耐 える自信はない。たった一ヶ月でギブアップや。
そうや、もう……諦 めよう。
俺はその時に決心 したんやったと思う。
四人で顔突 き合わせて住んで、お互 い内心悶 え苦しむ。そんなんハッピーエンドやない。
せめて誰 か一人でも救 えたほうがええやん。
俺が選べる、その一人は、亨 やった。
奇 しくも、瑞季 が描 いた絵の中で、俺を見て笑 うてる亨 の顔を見て、俺が守らなあかんのは、この笑 みやと思った。
あいつがアホで、自分でそれを守れへんのやったら、俺がやらなあかんのや。
元々そうやった自分の役目 を、俺はまた思い出した。
瑞季 の画帳 をめくり、俺は最後のページにあった、地獄 の絵を見つけた。
恐 ろしい顔をした、天を衝 くようなデカい鬼 が、犬を犯 してる絵やった。
小さい犬や。その鬼 の顔が、勝呂 のおとんやった。
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