838 / 928

29-46 アキヒコ

 何をするわけではないけど、ふと家で二人きりになった瞬間(しゅんかん)、大学でも、叡電(えいでん)の中ですら、あいつは俺の前に立って、先輩(せんぱい)、抱(だ)いてください今日、お願いしますって言う。  あいつは知ってんのや。俺がそういう気を隠(かく)してることを。  俺が平気やないって、よう知ってて、ウサギの穴(あな)の前で何日でも待つ猟犬(りょうけん)みたいに、辛抱(しんぼう)できひんようになった俺が飛び出してくるのを待っている。  そういう脈(みゃく)あるって思われてんのや。悔(くや)しいわ……。  なんてかしこい犬や。俺はあいつと二人きりになるのが怖(こわ)い。  アキちゃん大丈夫(だいじょうぶ)やろか? 拒(こば)めると思う?  そうやないやろ。俺もさすがに分かってきたわ。いろいろやらかした後やもん。  あいつが本気でかかってきたら、俺は頭からバリバリ食われる。そういう気がして、怖(こわ)いんや。  会いたない、今は。  亨(とおる)をつらい目にあわせんで済(す)むよう、細心(さいしん)の注意を払(はら)いたいんや。  途中(とちゅう)で干(ほ)されて、今の俺はまたとないほどちょろいウサギや。  今行くのは食うてください言うてるようなもんや。そんなことしたくない。  たとえあいつが傷(きず)ついてるって知ってても。俺には今できることは何もないやんか。  追いかけていって、すまん諦(あきら)めてくれって、土下座(どげざ)でもするか?  そんなんで済(す)むなら、とっくにしてるわ……。 「行ってやり、アキちゃん。服着せたるやん」  しゃあないなっていう声で、亨(とおる)が言うた。それでほんまに俺の服を着せ始めるもんやから、もうアホかと思た。  お前はアホか亨(とおる)。人が良すぎるわ。  それで泣くのはお前なんやで。俺も泣く。 「嫌(いや)や、行ってもできることなんかない」 「でもまあ行ってみ。行けば何か思いつくよ。ノープラン作戦(さくせん)や」  それお前が龍(りゅう)に使(つこ)うたやつやんか。  それしかないんか、亨(とおる)。それしか……ない?  もう嫌(いや)や。俺ほんまに嫌(いや)やったのに、さあ行ってこいて蛇(へび)に家から追い出されてもうた。  瑞季(みずき)がどこ行ったかなんて分からんのやで、正直。  部屋のドアからエレベーターまでの通路には、瑞季(みずき)が落っことしていった画帳(スケッチブック)があって、バラけた画用紙(がようし)が散(ち)らばって見えていた。  あいつも紙に手描(てが)きの絵を描(か)くんやな。  そら描(か)くか。画学生(ががくせい)なんやし、CG科の奴(やつ)だって、別に手で絵を描(か)かれへん訳(わけ)やない。  瑞季(みずき)が何描(か)いてんのか、見る気で拾(ひろ)ったわけやなかった。見えたんや。  あいつ、俺と亨(とおる)の絵を描(か)いてたわ。  胸(むね)を抉(えぐ)るような絵や。あいつにとっては、そうやったやろう。  俺はこの一ヶ月、慎(つつし)み深く生きてきたつもりやった。亨(とおる)といちゃつくのかて隠(かく)れてやった。それで辛(つら)かったんやんか。  そうやけど、それは思い込みやったんやろな。  瑞季(みずき)が見ていた、あいつの世界では、俺と亨(とおる)は十分すぎるほど、いちゃついてた。  朝、コーヒー入れてくれた亨(とおる)の手を、おとんがくれた鬼道(きどう)の本を読みながら、俺が握(にぎ)ってた。  抱(だ)き合(お)うてキスしてた、この部屋に帰ってきてすぐの日の、俺と亨(とおる)。  並(なら)んで歯磨(みが)いてる俺が、亨(とおる)の腰(こし)を抱(だ)き寄(よ)せていた。  でもそれは一瞬(いっしゅん)やったはずや。  確(あし)かに身に覚(おぼ)えはある。そういえばそうや。  でも別に、瑞季(みずき)に見せつけようとして、やってた訳(わけ)やない。無意識(むいしき)や。  それがあかんのか。無意識(むいしき)やから、あかんのか。  無意識(むいしき)にでも、俺の視線(しせん)は亨(とおる)を見てる。  いつも無意識(むいしき)に俺を見ている瑞季(みずき)には、それが分かるんやろう。  俺を見ろって思うんやろう。よそでやれって思うんやろう。  水煙(すいえん)もそう言うてたやん。前に、神戸で。  それが無理なら、俺をどこかに片付(かたづ)けてくれって。  もう俺と亨(とおる)が戯(たわむ)れ合う姿(すがた)を見んでもええように、蔵(くら)でも物置(ものおき)でもいい、見んで済(す)むどこかに片付(かたづ)けてって。  瑞季(みずき)をどこかに片付(かたづ)けることはできひん。水煙(すいえん)も、今となってはそうや。  あいつはもう、同じ文句は言わへん。何も言わんようになった。  言えば俺が苦しいって、あいつは知ってんのやろな。  別に俺だけが、つらい訳(わけ)やない。皆(みんな)、同じや。  こんなことはもう、やめよう。もう、無理や。俺にはもう無理。  おとんみたいに何年も耐(た)える自信はない。たった一ヶ月でギブアップや。  そうや、もう……諦(あきら)めよう。  俺はその時に決心(けっしん)したんやったと思う。  四人で顔突(つ)き合わせて住んで、お互(たが)い内心悶(もだ)え苦しむ。そんなんハッピーエンドやない。  せめて誰(だれ)か一人でも救(すく)えたほうがええやん。  俺が選べる、その一人は、亨(とおる)やった。  奇(く)しくも、瑞季(みずき)が描(か)いた絵の中で、俺を見て笑(わろ)うてる亨(とおる)の顔を見て、俺が守らなあかんのは、この笑(え)みやと思った。  あいつがアホで、自分でそれを守れへんのやったら、俺がやらなあかんのや。  元々そうやった自分の役目(やくめ)を、俺はまた思い出した。  瑞季(みずき)の画帳(スケッチブック)をめくり、俺は最後のページにあった、地獄(じごく)の絵を見つけた。  恐(おそ)ろしい顔をした、天を衝(つ)くようなデカい鬼(おに)が、犬を犯(おか)してる絵やった。  小さい犬や。その鬼(おに)の顔が、勝呂(すぐろ)のおとんやった。

ともだちにシェアしよう!