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29-48 アキヒコ

「どっちがいいか選べ。嵐山(あらしやま)か、甲子園(こうしえん)か」  (かわ)いた声で、俺は選ばせた。  どっちでもいい。けど、遠いほうがええなと思って、瑞希(みずき)甲子園(こうしえん)を選んでくれへんかなと、(ねが)ってた。  神戸やったら、俺もそうそう顔は出せへん。蔦子(つたこ)さんやったら、こいつを可愛(かわい)がってくれるやろう。  (おぼろ)のことも、あの人が守っててくれたんやもん。 「(ひど)いよ……」  (なげ)瑞希(みずき)の声はもう、ほとんど言葉(ことば)になってへん。  俺の左足を(つか)瑞希(みずき)の手が、(いた)いぐらいやった。 「邪魔(じゃま)なんやったら、家ん中やのうてもええんです。先輩(せんぱい)。俺はどこでも()られるし、気にしてくれへんでもいい。近くに()らせてください。先輩(せんぱい)姿(すがた)が見えるとこがええんや」  しばらく(なげ)いてから、瑞希(みずき)はまた、()てられとうないと、気力を()(しぼ)ったようやった。  必死(ひっし)口説(くど)いてきた。その目が、まっすぐ俺を見てるんを見つめ、俺は心を動かされんよう、歯を食いしばってた。 「なんで……? なんで助けたん? ()てるんやったら、あの時、()てたらよかったやんか!」  俺が(なび)かんという確信(かくしん)()いてもうたんか、瑞希(みずき)は悲鳴みたいな声で、俺に(さけ)んだ。  その声が、ものすご(するど)()のようで、俺の(むね)()さり、もう瑞希(みずき)と目を合わせてる力が出えへん。 「なんでやろな……」  お前を助けたいっていうんが、俺のワガママやったんやろな。  確かにお前の言うとおり、どこで()てても同じやったよな。  今のほうがマシやって、思うほうがどうかしてる。  でも俺はそう思うてた。マシなはずや。  今はしんどくても、神戸か、嵐山(あらしやま)で落ち着く寝床(ねどこ)を見つけられたら、こいつだって幸せになれる日も来るかもしれへん。  (おぼろ)も、あんなに(あわ)れやったけど、でも今はもう、少しは希望(きぼう)()もあるやん。  あれから何十年の時が過ぎて、あいつも(むく)われるかもしれへん。  今すぐのことを考えて、絶望(ぜつぼう)したらあかんのや。俺も、お前も、永遠に生きるんやし、(あせ)ってことを運びたくない。  そのせいで全員で破滅(はめつ)するコースに乗るのは、(おろ)かやろ。  俺は落ち着こうって思って、ガソリンくさい地下(ちか)駐車場(ちゅうしゃじょう)の暗い空気を()った。 「ちゃんとしたとこで、()なあかんのやで。そら、(しき)の中にはな、天井裏(てんじょううら)とか床下(ゆかした)が好きっていう(やつ)もおるわ。うちの実家(じっか)にもいてる。そやけど、お前はずっと人間やったんやないか。ここで()るわけにいかへんやろ」 「そんなことないですよ。うちの実家(じっか)駐車場(ちゅうしゃじょう)()たことあるもん」  それがどうしたという(つら)で言う瑞希(みずき)に、俺は痛恨(つうこん)の表情やった。  お前、そんなこと言わんといてくれ。お前が可哀想(かわいそう)になってくるやん。 「ひとつ聞いてええか。お前の、出生(しゅっせい)のことや。(いや)やったら答えんでもええわ」  もう、これが最後の聞く機会かもしれへん。俺はそう思ったのもあって、瑞希(みずき)(たず)ねた。  うちのおとんが言うてた。嵐山(あらしやま)の家におかんの見舞(みま)いで行った時、ふたりで縁側(えんがわ)蜜柑(みかん)食うて話した。  アキちゃん、お前んとこの、あの犬やけど。あれほんまに犬やろか、って。  啓太(けいた)も言うてた。  蔦子(つたこ)さんとこの式神(しきがみ)の、書類仕事が得意(とくい)で、何でも気が()眼鏡(めがね)雪男(ゆきおとこ)や。  冷たい声やった。俺を()めてたんかな。  先生とこの(れい)のあの犬、訴訟(そしょう)のための必要あって調べましたが、戸籍(こせき)がありますよね。  不思議(ふしぎ)やね。  まあ、(しき)にも戸籍(こせき)ある(やつ)()るんですけど、怜司(れいじ)なんか持ってるでしょ。  でもあいつには出生届(しゅっせいとどけ)は残ってないんですよね。普通(ふつう)には出生(しゅっせい)してへんのやから。  そやけど、先生の犬、出生届(しゅっせいとどけ)も出てますよ。  あの子ね、と、啓太(けいた)は俺を見て、淡々(たんたん)と、(こお)りつくような声で言うてた。  あの子、人間なんとちゃいますか。  おとんが言うてた。  アキちゃんな、お前は修行(しゅぎょう)が足らんし、知らんのやろけど、人間が(あや)かしに取り()かれて、妖怪(ようかい)(おに)みたいになってることもあるんや。  生まれつき、(おおかみ)やら(きつね)やらに変身してまう能力を持った巫覡(ふげき)かておるしな。  そいうのは、どんなに妖怪(ようかい)らしく見えても、人間や。(しき)にはできひん。  しようと思うたら、そら、できるんやけど。  モラルの問題や。()えたらあかん一線(いっせん)てあるやろ。  お前が鬼畜(きちく)やのうて、人であるためにやで。アキちゃん。  モラルの問題なんや……。 「お前ほんまに犬やったんか。そういう記憶(きおく)があるんか」  俺が(たず)ねると、瑞希(みずき)にはよっぽど意外(いがい)な話やったんか、(なみだ)をいっぱいためた目のまま、ぽかんと虚脱(きょだつ)して、俺を見上げた。  俺はじっと食い入る目で、瑞希(みずき)を見つめた。 「俺が(にわ)で泣いてたら、でっかい黒い犬がきて、力をくれたんや」 「その時お前はどんな姿(すがた)やった」 「犬です……」 「どんな犬や」  俺が聞くと、瑞希(みずき)動揺(どうよう)して、きょろきょろした。  その(まど)う目が、何を見てんのか、わからへん。  過去に見た、(おそ)ろしい何かやった。

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