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29-49 アキヒコ

「わからへん……考えたことない。マルチーズやろ。お母さんがマルチーズ()うてて、瑞希(みずき)って名前やったんです。俺はその生まれ代わりやねえ、って。お母さんが。おとんも俺のこと、お前は犬やて」 「そうか……わかった。もうええわ」  俺はその続きを、聞くのが(こわ)い。聞いたことない、それ以来。  どうあろうと、瑞希(みずき)はもう人間ではありえへん。犬神(いぬがみ)や。  そして天使(てんし)になって、堕天使(だてんし)になって、もはや生まれた時の自分ではない。  ()れの()ての自分で、生きていくしかないんや。 「人間やったんやろ。お前。それで、俺の大学の後輩(こうはい)やったんや。その続きを、生きてええんや。人間らしく生きなあかんやろ。こんなとこで()られへんやろ。(たの)むから、もっと自分を大事にしてくれ」 「俺は先輩(せんぱい)の犬や。それでええねん。そうさせて……」  あかん。こいつをもう(そば)には置いておかれへん。俺一人の手には負えへん。  どうしたらいいか、相談せなあかん。おとんと。おかんと。蔦子(つたこ)さんと。大崎(おおさき)先生と。俺よりも物を知ってる鬼道(きどう)の人らと。  そうせな、こいつを(すく)うのは無理(むり)や。 「先輩(せんぱい)。俺がどうしたら幸せになれるか、どうして先輩(せんぱい)が決めるんや。俺の自由やろ。人間らしくても、先輩(せんぱい)がいなきゃ、あかんねん。幸せになりたい(わけ)やないんです。一緒(いっしょ)に、(そば)にいたいんや。犬やったら()っこしてくれるやん。それでええのに。先輩(せんぱい)。それがええんやったら、俺ずっと犬の姿(すがた)でも()れます。ものも言わへんし、邪魔(じゃま)もせえへん。ええ子にしてる。そやから……そばに置いてよ」  ()きしめて、可愛がりたい、愛玩犬(あいがんけん)みたいな(やつ)や。  瑞希(みずき)(ふる)える(ひとみ)で、俺を見て、引き離(ひきはな)されるもんかっていう強い手で、俺にすがってた。  そんなことあるんや。そこまで(だれ)かを好きになることが、あんのやな。  こいつは俺が好きなんや。  ただそれだけのことが、物凄(ものすご)(むずか)しい。  おかしいなあ。ただの大学の先輩(せんぱい)後輩(こうはい)で、なんでここまで(むずか)しいんやろ。  おかしいよなあ。残念(ざんねん)やわ、俺も。  お前を幸せにしてやりたかったわ。それが俺の本音(ほんね)やったんや。 「先輩(せんぱい)を全部くれって言うてへんやん。ちょっとでええんや。あの人が食い残す、ほんのちょっとでええんやで先輩(せんぱい)。それもあかんのですか。なんで? なんでや……」  瑞希(みずき)がそう、いつもの切羽詰(せっぱつ)まった調子で言い募(いいつの)ろうとしたとき、急に機械の駆動音(くどうおん)がして、ガレージのシャッターが開いた。  深夜の、ヘッドライトの光に照らされて、俺と瑞希(みずき)はぎくりとした。  ここのマンション、最上階(ペントハウス)は俺らだけやけど、別に()()りではないしな。他の人も住んでんのやで。  だからたまたま、車で帰ってきはったんや。たまたまの話やった。  そうやけど、有り難(ありがた)い神や、たまたまは。  偶然(ぐうぜん)の、運命(うんめい)のいたずら。  この時、俺と瑞希(みずき)はもう(のう)みそグダグダで、どこにも行けへんどうどう(めぐ)りの地獄(じごく)()った。  いくら話しても埒(らち)あかん。  俺にも、瑞希(みずき)()()気合(きあ)いがほんまにあったんか、どうか。  車は乱暴(らんぼう)に入ってきて、俺らが()るとは思わへんかったんか、確認(かくにん)せずに車庫入(しゃこい)れしてきた。  ()かれるかと思うたわ。  まあ、()かれても、そう簡単(かんたん)には死なんかったやろけど、でもまあ、本能的(ほんのうてき)()けるやん。  ほんで、本能的(ほんのうてき)瑞希(みずき)をかばうやんか。  (あわ)てて立ち上がった瑞希(みずき)を、俺は()きしめ、あいつは()きついてきた。  それって()()うてるってことやん。  当たり前やけどな、そこを写真に()られてん。パパラッチさんやんか。  (ひそ)んでたんや。ガレージのシャッターの(かげ)に。  ほんで、(だれ)か住人が(もど)ってくる(すき)(ねら)って、屋内(おくない)侵入(しんにゅう)しようとしてたんやろな。  それ犯罪(はんざい)やで。不法侵入(ふほうしんにゅう)やないか。  うちのマンション、玄関(げんかん)には厳重(げんじゅう)なセキュリティーがあって、顔認証(かおにんしょう)せな二重ドアをくぐれへんのやけど、ガレージにセキュリティーホールがあるんや。  そんなこと修羅場(しゅらば)すぎて考えてへんかったわ。 「()ったったで! やっぱりデキとったんやな」  (だれ)、お前、ていうおっさんが、一眼(いちがん)レフ(かま)えて笑っていた。  パパラッチさん、昼間いた人や。  竜太郎(りゅうたろう)とトロール君といる俺を(ぬす)()りしてた人や。  あん時、遠慮(えんりょ)のうカメラぶっ(こわ)しといたったらよかったわ。  何してくれてんのや。俺ら修羅場(しゅらば)やで。  ものすごシリアスな、生きるか死ぬかの話してんのやで。  やっぱりデキとったかやないわ。  デキてへん。そのことで()めとんのや。見てわからんのかドアホ。  俺はびっくりしたせいか、そういう発作的(ほっさてき)()()たり(てき)(いか)りに入ってた。  それでもなかなか()いたもんを手放す動作には(うつ)れへんもんや。 「デキてへん! そんな簡単(かんたん)にいくなら、とっくにやっとるわ! できひんから(こま)っとんのやろ! あることないこと記事書いてくれてるそうやな。誰でも彼でもデキてるみたいな、そんなことできるんやったらな、(だれ)も苦労しいひんのや!!」

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