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29-52 アキヒコ
よう、蜜柑 太郎 。いつ出てくるつもりや。
もうすぐか?
生まれたら、お兄ちゃんが剣道 とか、絵とか、教えてやろな。
一緒 に絵描 いて遊 ぼう。
この世には、怖 い鬼 もおるし、つらいこともあるけど、楽しいで。
愛 おしい神もいてる。お前も早う、こっちにおいで。
俺が言葉でなくそう言うと、蜜柑 太郎 は俺を見つめ、どんぶらこ、どんぶらこと流れていった。
お兄たん、と呼 ぶ、幼 い声がして、夢 はそれまでやった。
俺がその夢 を見たことを思い出したのは、弓彦 が生まれた、ずうっと後になってからのことや。
そうして、蜜柑 太郎 はほんまに生まれてきた。
俺の弟、弓彦 や。22歳 も年下 や。
21歳 やないのかって?
俺、誕生日 が来てん。俺も実は霜月 生まれなんや。
せやし、ほんまやったら俺が、弓彦 くんやったんかもしれへんな。アキちゃんやのうて、ユミちゃんや。
弓彦 はたぶん、もう一人の俺やった。
おとんが居 って、おかんが居 って、ごく普通 に……秋津家 的 にはまあ普通 に、育っていくはずやった、おとんが戦争で死ぬことがなかった時空 の俺や。
弓彦 はものすご丈夫 な子で、頭がよく、いつもご機嫌 で、顔も可愛 い、性格もいい、笑顔が天使みたいな、世界一可愛 い俺の弟やった。
あかんねんアキちゃん弟にメロメロやねん。
弓彦 に会いとうて、用もないのに嵐山 の家に帰ってまうねん。
亨 は普通 に怒 ってる。
俺は亨 一筋 や。お前だけを抱 きしめて生きていくんやって宣言 したのに、いきなり弓彦 を抱 きしめて生きてる。
めっちゃ可愛 い。一生抱 っこしてたい。
おむつも替 えるし、風呂 も入れるよ。
もう大きいならんでええで、弓彦 。ずっと兄ちゃんが抱 っこしといたろうなあ。
という、残念 な感じの俺に、弓彦 もめちゃめちゃ懐 いてくれた。
俺が嵐山 に着く三時間ぐらい前から、アキちゃんアキちゃんというて笑い出すんで、おかんとおとんは、ああアキちゃん今日来るんやなと思うてるらしいわ。
弓彦 は水煙 の見たとおり、時空人 やった。
あっちの時間、こっちの時間を自由に行き来してるんや。
そやから、ある日行くと赤ん坊 で、別の日にいくと、座敷 をうろうろ歩き回ってた。
でも、誰 かわからんという事はない。一目見たら、それが俺の弟やということは、わかる。
だって兄弟やしな、血が近いんやもん。
「アキちゃん、今日も行くんか。ブラコンもええかげんにせえよ。トイザらスでバイナウ病 の発作 を起こすのは、もうやめろ。おかん怒 ってはるで。おもちゃ置くとこもうないて、おかんの怒 ってる紙人形 来とったで」
出かける準備 をしてる俺に、亨 はその日も、ぷんぷん怒 っていた。俺が全然、出町 の家に居 られへんからやった。
師走 に入り、俺はますます忙 しくなった。
卒制 の絵を、とうとう描 き始めたんや。
おとんと話して、アキちゃんの描 きたいもんを描 けばええんやで、と言われ、そうやなと俺は思った。
苑 先生が、あまりにセンセーショナルやと言うて、リテイクかけてきた俺の案 を、結局 そのまま描 くことにした。
今さらや。俺が破廉恥 な男やということは、もう、世間 は知ってる。
あることないこと雑誌 やネットに書かれ、パパラッチさんの洗礼 を受け続けた俺にはもう、プライバシーなどという素敵 なモンはない。
衆人 環視 のもと、亨 と出かけ、あいつが抱 いてというたら抱 かなあかん。
だってしゃあない、亨 は愛 しい俺のツレ、あいつが好きでたまらへんのや。
それに俺ももう、他人が自分をどう思うかで、くよくよするのには飽 きてきた。
どうせ俺は俺、他の奴 とは違 う。それは誰 でもそうや。
鬼道 の家に生まれようが、漬物屋 の家に生まれようが、人それぞれ事情 は皆 、他人とはちがう。
それを気にして、しんどい気持ちになったところで、誰 が得 すんのや?
俺がそういう、突 き抜 けた気持ちになれたんは、長らく自分を苦しめていた悩 みが、解決 したからやった。
そして自由に絵が描 けているから。
絵を描 いてる時の俺には、怖 いモンが何もない。
世界はいつも俺の味方 やし、希望に満 ち溢 れてる。
そういう気分になれるんや。
それやったら、アキちゃんずうっと絵描 いといたらええんやない?
そういうことやで、俺も悟 った。
「大丈夫 や、なんとかなる。うちの家は広いんやから、オモチャぐらいナンボでも置ける」
なんも心配いらへん。俺は穏 やかな気持ちで亨 に答えた。
今日もしょうがなしに俺に嵐山 に同行 させられる亨 は、また行くんかと渋々 身支度 をしていた。
あっちには水煙 が居 るし、俺はあいつの顔も見たい。
すったもんだの挙句 、俺は水煙 と別居 することにした。
あいつには神棚 が必要や。そして俺には、太刀 は毎日、必要ではない。
それは苦渋 の決断やったけど、水煙 がそれでいいと言うたんや。
お互 いそれが分別 や。
水煙 は黙 ってしばらく、俺が渡 した自画像 を見て、そう言うた。
別に永遠に会えんわけやない、アキちゃん。俺が要 るとき、いつでもおいでと。
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