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29-54 アキヒコ

 (せつ)なそうな伏し目(ふしめ)で言うて、愛の言葉をねだる(とおる)を、俺は(あせ)って(なが)めた。  それ、言うの? 言えいう話か?  どこで聞いたんや、それ。  お前まさか瑞希(みずき)の部屋を(のぞ)いてへんよな。  それはあかんで、ルール違反(いはん)やで。  この微妙(びみょう)絶妙(ぜつみょう)なバランスを(くず)さずやっていくには、ルールが絶対不可欠(ふかけつ)や。  あれは俺らとは別の時空(じくう)。お(たが)い、()れたらあかんねん。 「アキちゃん……」  俺は(とおる)の白い手をとって、その手のひらにキスをした。  そこが(とおる)の気持ちいいところ。そういう場所の一つやって、もう知ってる。  そこに長いキスをして、小さく(あえ)(とおる)()き寄せた。 「帰ったら、しよな」  耳に直接(ちょくせつ)約束(やくそく)すると、(とおる)(うめ)いて身をよじる。  アキちゃんいろいろ研究(けんきゅう)してな、(とおる)(よろこ)ぶこと、いろいろ(おぼ)えてん。  ()ずかしささえ克服(こくふく)すれば、俺は研究(けんきゅう)熱心な男やで。 「(うそ)やろ今やろ……」  ぼやく(とおる)(うで)をたどって、服の上から口付(くちづ)けて、最後のキスを(くちびる)に落とすと、(とおる)はふにゃあっとなった。 「嵐山(あらしやま)行くで。車乗ってくれ」 「寸止(すんど)めの(おに)!」  ぐでんぐでんなってる(とおる)の手を引いて連れていき、俺はマンションの地下駐車場(ちゅうしゃじょう)から車を出した。  新しい車やで。  前に乗ってた車は、おかんが()うてくれたんやけど、新しいのは自分で()うた。  前に大崎(おおさき)先生の依頼(いらい)()いた舞妓(まいこ)さんの絵やら、蛇神(へびがみ)暁月(ぎょうげつ)()でてる絵やらが売れてたし、俺には車を買う程度(ていど)の金やったら自分で(かせ)げてた。  それがどうにも不思議(ふしぎ)な気がした。  まだ学生の身分(みぶん)やというのもあるけど、俺の()いた絵に値段(ねだん)がついて、売り買いされるていうのが、不思議(ふしぎ)やったんや。  絵描(えか)きになろうかなって、ぼんやりとやけど思うてた。  他に自分がなるもんが想像(そうぞう)つかへん。  鬼道(きどう)の家の跡取(あとと)りで、俺はおとんから家督(かとく)()ぎ、京一帯(きょういったい)安寧(あんねい)を守る責務(せきむ)()うたらしい。それが当家(とうけ)代々(だいだい)役目(やくめ)や。  それに(くわ)えて、絵を()く仕事が(つと)まるんかは、俺には分からん。  家業(かぎょう)両立(りょうりつ)できるもんなんか、そもそも絵描(えか)きとしてやっていけるんか、自分の未来が見当(けんとう)()かへん。  ピンと()いひん、自分が一人前になるということが。  それでも俺が学生やってられる期間(きかん)はあともう(わず)かやった。  車は快調(かいちょう)に走り、紅葉(こうよう)も終わろうとしている冬支度(ふゆじたく)嵐山(あらしやま)へと入った。  冬枯(ふゆが)れも美しい。(とおる)は助手席で景色(けしき)を見ているようやった。 「何でもええけど、後部座席(うしろ)にチャイルドシート()んであるのん何とかならへんのか、アキちゃん。ものすご所帯(しょたい)くせえんやけど」  いつも言うてる文句(もんく)(とおる)が言うて、俺は笑った。  しゃあない、ユミちゃん乗るときいるんやもん。  俺の車には、チャイルドシートと車椅子(くるまいす)()んである。  車自体も車椅子(くるまいす)ごと乗れるやつにしようか(なや)んでんけど、それやと車種(しゃしゅ)も限られてくるし、()()りの時に水煙(すいえん)()いてやられへんようになる。  別にええかと思って、普通車(ふつうしゃ)にした。  俺は実は全然変わってへんのかもしれへん。  複雑(ふくざつ)入り乱(いりみだ)れてた(おも)いを整理(せいり)する方便(ほうべん)に、絵を()いただけ。  今もって実は多情(たじょう)で、(わす)れたふりをしてるだけ。  でも今は、それを(あば)かんようにするのが、暗黙(あんもく)のルールやで。(みな)であんじょうやっていくためにはな。  車が家に着くと、玄関(げんかん)におとんと弓彦(ゆみひこ)(すわ)ってた。  洋装(ようそう)幼児服(ようじふく)を着てる。  最近ずっと、二(さい)くらいの姿(すがた)をしてて、(した)ったらずでも一応(いちおう)、言葉を話してる。 「アキちゃん」  きゃっきゃ笑いながら、弓彦(ゆみひこ)両手(りょうて)()げて、()っこしろというふうに俺を出迎(でむか)えた。  それを抱き上(だきあ)げ、俺はおとんに目で挨拶(あいさつ)した。 「へび。へび」  (とおる)指差(ゆびさ)し、弓彦(ゆみひこ)真面目(まじめ)くさって言う。それに(とおる)苦笑(くしょう)していた。 「どうも(へび)です」  弓彦(ゆみひこ)には(しき)正体(しょうたい)が分かってるらしい。  さすがは(かしこ)いユミちゃんや。将来(しょうらい)が楽しみやな。(こわ)いというかやな。 「おとん、今日は何個か用事があるねん。水煙(すいえん)は?」 「あいつはお登与(とよ)とおるよ」  それでおとんが子守りしてんのやな。  弓彦(ゆみひこ)はいつもおかんと()ったり、おとんと()ったり、(まい)ちゃんや大崎(おおさき)先生や、秋尾(あきお)さんと()ったりする。  (だれ)にも人見知りせず(なつ)くんで、(だれ)かと()るやろうという感じや。  俺が来てたら俺んとこに来るし、時には水煙(すいえん)()ることもある。  あいつが子守りするなんて、不思議(ふしぎ)な気もするんやけど、そういえば水煙(すいえん)は俺が子供(こども)(ころ)にも面倒(めんどう)見てくれた。  声しか聞こえへんかったけど、俺にとっては心寄(こころよ)せられる相談(そうだん)相手やったと思う。  弓彦(ゆみひこ)にとっても、秋津(あきつ)御神刀(ごしんとう)()れて育つのは、ええ事やろう。  秋津(あきつ)家の男子が(みんな)、通る道や。 「話したいことあるんや、おとん。ここやと何やし、(おく)で聞いてくれ」 「それは、(あらた)まった話やな」  おとんは着流(きなが)しの和装(わそう)で、くつろいだ雰囲気(ふんいき)やった。  いかにも昭和(しょうわ)初期のままで、時が止まってもうてる感じがする。  それがあかんとは思わへんけど、そろそろ時間をすすめるべき時や。
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