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29-56 アキヒコ

 (きわ)めて微妙(びみょう)な空気が各々(おのおの)(あいだ)(ただよ)っている時期やった。  物事(ものごと)()()めたくはないという、(さぐ)り合いの空気が。  おとんの顔にもそれがあった。  ことを前に進めるというのには、停滞(ていたい)していた物事(ものごと)が、終わりを(むか)えるという(おそ)れもあった。  ただ(わか)れるために出会うということも、あるからや。  (おぼろ)(きゅう)(おそ)れるようになった。気づいたんやろう。あいつが俺のおとんの(そば)におったんは、数年ほどの(あいだ)やった。  それから、その何倍もの時が(じつ)は流れていて、おとんは、自分も、あの時のままやない。  再び()し流れていく時が、何もかも(こわ)して流れ去る津波(つなみ)のような奔流(ほんりゅう)でないとは言えへん。  停滞(ていたい)した(やさ)しい思い出とは(ちが)って、あいつの都合(つごう)のいい(あま)さがあるとは(かぎ)らんからや。  思い出に(ひた)る。それがずっと、あいつの心の、存在(そんざい)そのものの(ささ)えやったんやし、生きる力やった。  いざ()うてみて、相手(あいて)が思うほど自分を愛してへんかったら、自分が思うほど、(むね)を熱く燃やす愛に(もだ)えへんかったら、どないする……?  そんな臆病(おくびょう)(やつ)やったっけ。  人は、(しき)もやけど、見かけによらへん。  そんな繊細(せんさい)心弱(こころよわ)いやつやったんか。  俺のハートは土足(どそく)()みにじる(くせ)にな。 「(おぼろ)は、おとんに会うのが(こわ)いらしい。会いとうないと言うてた」  俺がそう言うと、おとんはまだ表情を変えんまま、二度三度、目を(まばた)かせた。 「ああ、そうか。それやったら、無理(むり)に会うことないんと(ちが)うか」 「それでええんやろか。会いたい言うたってくれへんか」 「俺がか」  なんでやという声で、おとんは不思議(ふしぎ)そうに聞いてきた。 「(たの)むわ。この(とおり)りやで、おとん」  俺は、おとん大明神(だいみょうじん)()(おが)み、(おが)(たお)した。  なんで俺がこんなこと。  でも、多分(たぶん)それは、俺が神戸で、ロックガーデンの祭壇(さいだん)で、信太(しんた)(たく)されたことへの義理立(ぎりだ)てやった。  先生があいつのこと幸せにしてやってください。俺は(とら)にそう(たの)まれてる。  その願いを、(かな)えてやりたいんや。  なんでか知らん、でも俺も(とら)の気持ちが分かるんや。  ()れた弱みや。あいつが幸せそうに笑う、その顔を一目見たいって、ただそれだけの執念(しゅうねん)や。  信太(しんた)はもう、それさえ自分では(おぼ)えていない。  その(おも)いを()()いでやれるんは、もう、この世で俺だけや。  あの日、(とら)を死に追いやり、最期(さいご)見届(みとど)けた俺の(つと)めや。  俺にはそういう(おも)いがあって、ひょっとしたら不死鳥(ふしちょう)にもあったんかもしれへん。  寛太(かんた)は、そういう(とら)(おも)いも、冥界(めいかい)()の中に()ててきた。  あいつはその罪滅(つみほろ)ぼしをしたいんやないか。  そうでないなら、なんで(おぼろ)と俺のおとんの古い(こい)を、あいつが応援(おうえん)すんねん。別にせんでもええねんで?  運命は微妙(びみょう)なもんやな。  時には(さか)らい(がた)津波(つなみ)にように()()せ、時には水源(すいげん)()く流れのように、(ひそ)やかに(から)み合って流れる。  簡単(かんたん)途切(とぎ)れ、消えてしまうような、(はかな)い流れとして。  それがまた、何もかも押し流す大きな流れへと育つかどうかは、分からへん。 「しゃあない(やつ)やな」  ぽつりと、おとんが言うた。  運命(うんめい)の新しい一滴(いってき)が、岩(かげ)清水(しみず)のように(したた)り落ちる音が、俺には聞こえた気がした。  おとんは、のんびりと部屋の()物机(ものづくえ)に向かい、半紙(はんし)を切って、人型(ひとがた)にした。  そしてのんびり(すみ)()り、(ふで)(ふく)ませた。  携帯(けいたい)でメールとかやないんや。まず(すみ)するとこからなんや。  今すぐ、電話もかけられるんやで、おとん。  今すぐ飛んできてくれって、今すぐ会おうって言えるで。言わんのか?  (ふで)で、人型(ひとがた)に切った半紙(はんし)(はら)に、おとんは暁雨(ぎょうう)と書いた。  俺に家督(かとく)()がせ、秋津(あきつ)暁彦(あきひこ)名乗(なの)権利(けんり)(ゆず)ってもうたおとんは、隠居(いんきょ)の身や。  昔使(つこ)うてた絵のための雅号(がごう)を、また名乗(なの)ることにしたらしい。  (すみ)(かわ)くのをゆっくり待って、おとんは両手のひらに乗せた紙人形に、ひそひそと(ささや)いた。  (おぼろ)四条大橋(しじょうおおはし)にて待つ。  それだけ(たく)された紙人形は、障子(しょうじ)を開けて縁側(えんがわ)に出たおとんの手によって(はな)たれ、のんびりと、しかし、まっしぐらに、神戸の方へと飛んでいった。  それが見えへんようになるまで、おとんは(あわ)()みで、腕組(うでぐ)みしたまま見送り、また座敷(ざしき)(もど)ってきて、俺の前に(すわ)った。 「あれだけ……?」  お前に会いたいんや、めっちゃ好きとか言わんのや……?  俺はそういう目で、おとんを見たんかもしれへん。  お前ちょっともどかしいでという顔で(すわ)ってる俺と向き合い、おとんは軽く()き出して笑った。 「あれで来るで、(おぼろ)は。お前は()()きがわかってへん男やな、アキちゃん。(へび)になんて言うてやってんのや、大丈夫(だいじょうぶ)か?」  可愛(かい)らしいもんやなという目で、おとんは俺を見てた。  えっ俺⁉︎︎ (とおる)になんて言うてる?  好きや好きやって。他になんて言うねん⁉︎︎ あかんのか、それ……。  まあええわ。そうして、それからどうなるかやな?  紙人形は()ばたいていき、神戸へと到達(とうたつ)した。(おぼろ)の元へ。  そして(ささや)いた。おとんの声で。

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