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29-61 アキヒコ

 (はし)を行き来する人の()れ。観光客(かんこうきゃく)。  そして幽霊(ゆうれい)妖怪(ようかい)(おに)邪霊(じゃれい)(たぐい)まで、あたりにウヨウヨとおったんや。俺にはそれが見えていた。  鴨川(かもがわ)対岸(たいがん)はあの世やと、昔の都人(みやこびと)は思うてたらしい。  そやけど今は普通(ふつう)(まち)になってるし、(みんな)、つつがなく生活してる。  そうやけど、昔はあった異界(いかい)の門が、消えてるわけやない。  (あや)しい有象無象(うぞうむぞう)が、いなくなったわけやない。  今も世界は、不思議(ふしぎ)不思議(ふしぎ)でいっぱいや。 「どないしよ、信号(しんごう)青なってまうな。(はし)もうすぐやん」  今さら怖気(おじけ)たようなことを、湊川(みなとがわ)は言うた。ほんまに足すくむようやった。 「気合(きあ)い出せ兄さん。あの(おに)(こわ)ないのに、アキちゃんのおとんが(こわ)いんか? ドーンいっとけ!」  (とおる)がドスの()いた声で、湊川(みなとがわ)()()した。  ドーンやでドーン。何か分からへん。 「そら(こわ)いやん。秋津(あきつ)(ぼん)やで。俺なんか一捻(ひとひね)りで殺せる男や」  さよなら言えば一発(いっぱつ)や。どんな太刀(たち)()られるよりも深い致命傷(ちめいしょう)()う。  湊川(みなとがわ)にとって、おとんはそういう相手(あいて)やねん。  そらまあ(こわ)いな。俺も(とおる)(こわ)い。  こいつと()(はな)されることを思うと、(こわ)くてたまらん。  そやけど、大丈夫(だいじょうぶ)や。もう二度と()(はな)されへんように、(とおる)とは、しっかりと手を(つな)いであるんや。  お前もそうせえ。(おぼろ)(りゅう)湊川(みなとがわ)怜司(れいじ)。おとん(いのち)京雀(きょうすずめ)。  とうとう京に(もど)れたんやからな。ここ一発の勇気を出すんや。  俺も無言(むごん)で、(おぼろ)(はげ)ます目で見た。  それを苦笑(くしょう)見返(みかえ)してきて、湊川(みなとがわ)は深い溜息(ためいき)をついた。  そして、何か長いもんを、コートのポケットからにゅうっと出した。  何や唐突(とうとつ)やなドラえもん。お前の四次元(よじげん)ポケットやな。  それを後ろ手に俺に(わた)してきて、湊川(みなとがわ)は言うた。 「先生、それ、水煙(すいえん)にやって。どないするか(なや)んだけど、がめたまま死ぬわけにもいかへん。勿体無(もったいない)いからな」  受け取ってみると、それは(じく)やった。絵の(じく)や。  青い青海波(せいがいは)(にしき)でできた表具(ひょうぐ)に、(かがや)くような白い真珠(しんじゅ)色の組紐(くみひも)()かれてあった。  俺がそれを(ほど)くと、中から絵が出てきた。おとんの絵や。  門外不出(もんがいふしゅつ)やったんちゃうんか。そう聞いてたけどな。  おとんは家の外で絵を()くことを(きん)じられてた。そやから、残っている絵は全てうちの(くら)にあるのが建前(たてまえ)や。  しかし、そうとは(かぎ)らへん。  神戸のヴィラ北野(きたの)宴会(えんかい)で、支配人(しはいにん)中西(なかにし)さんが話してた、大崎(おおさき)先生が(さが)しているという(きつね)の絵。それも(くら)から()れている。  たぶん元々(もともと)、家の外で()かれ、うちの(くら)にはいっぺんも(おさ)まったことのない絵やろう。  それをおとんは、どこで()いてたんか。  そりゃあ、あれやん。(おぼろ)の家やわ。  おとんには、親や家の(もん)(かく)れて(ふけ)る遊びがあって、そのためのアジトが(おぼろ)の家やったんや。  悪い(ぼん)やわ、楽しかったやろな。  そこで絵を()き、(おぼろ)(あず)けてあったんやろう。  他にも絵があるような口ぶりで、湊川(みなとがわ)は言うた。 「(ほか)のんは冥土(めいど)土産(みやげ)にもらってもええけど、これは(いや)やしな。もらって(うれ)しい(やつ)が持っといてくれって、言うといて」  敵に塩を送るような顔をして、湊川(みなとがわ)はふふんと(わろ)た。  絵は、水煙(すいえん)やった。  白い(あわ)(あみ)の目のように()じる、青い波濤(はとう)の中に、(なぎさ)に打ち寄せられた人魚(にんぎょ)のような、青い蛇体(じゃたい)水煙(すいえん)(すわ)っている。  背景(はいけい)には有明(ありあけ)の月の残る、(あかつき)の空が(えが)かれ、その朝日に()らされた水煙(すいえん)の顔は、前に見ていた海の怪異(かいい)のものやない。  今の、(のろ)いの()けたほんまもんの顔で、(けむ)るような()れた睫毛(まつげ)で俺を見る、天人(てんじん)の顔やった。  おとん。なんでこの顔、知ってたん。  見えてたんか。実は。  俺はおとんの目の良さに、びっくり魂消(たまげ)た。  それにこの絵、(ふる)えがくるような傑作(けっさく)や。  たぶん(おぼろ)(りゅう)の絵と(なら)び、おとんの最高傑作(さいこうけっさく)双璧(そうへき)と言えるやろう。  大崎(おおさき)先生おらんで良かった。もし付いてきてたら、この木屋町(きやまち)信号(しんごう)んとこで、この絵を見て、泣きながら(ころ)がりまわってる。  それやと変態(へんたい)すぎて引くからな。邪魔(じゃま)やしな、(あぶ)なかったわ。  しかし、おとんは、これを(おぼろ)の家で()いたんか。もちろん(おぼろ)も絵は見たやろう。  おとんは、(おも)うた相手を絵に()性癖(せいへき)の男やった。それを(おぼろ)も知ってたやろか。  (おに)やな、おとん。  そんなことしたら、(おぼろ)はおとんが水煙(すいえん)を選んだんやと思うやろ。  それを言うため、わざわざ絵()いて見せたんか。 「()()てたろか思うたけどな、上手(うま)いこと()けてるやろう。これ、ちゃんと世に出たら、きっと、いい絵描(えか)きになれるわと思て、とっといたん」  しゃあなしやな。そういう顔で、(おぼろ)は教えて、にっこりとした。 「ほな行くわ。もう思い残すこともあらへん。俺のために、いろいろ心砕(こころくだ)いてくれはって、先生、おおきにありがとう。この後、どないなっても、先生のせいやない。俺のことは、(わす)れてええから」 「死ぬ気まんまんやな」  (とおる)眉間(みけん)にシワ()せて、指摘(してき)した。 「そんなんやと、いけるもんもいけへんで。俺と付きあえてお前は世界一ラッキーな男やでぐらいの上から目線(めせん)でいけ、兄さん」 「そうするわ」

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