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29-62 アキヒコ

 冗談(じょうだん)やと思うたんか、()き出して笑い、湊川(みなとがわ)は俺と(とおる)に手を()った。  信号が変わり、もう行かなあかんからやった。  (とおる)は別に、冗談(じょうだん)で言うたわけやない。本気で言うてる。  こいつ実際(じっさい)めったに冗談(じょうだん)なんか言わん(やつ)やで。  いくらアホかと思うようなことでも、いつも本気で言うてんのやで。  真剣(しんけん)に生きてんのや、これでもな。  これについては、俺も(とおる)同感(どうかん)や。  おとんは、お前みたいな(やつ)と出会えて、世界一ラッキーな男やった。  そして、それはこれからも続く。おとんしだいや。 「ほっといて平気(へいき)やろか、アキちゃん。お前のおとんがどこまで鬼畜(きちく)かわからんで」  歩み去る湊川(みなとがわ)を見送って、(とおる)は俺が持ったままの水煙(すいえん)の絵を(にら)み、(おそ)れたふうに言うた。  ほんまやな。おとんのことが好きでたまらん(おぼろ)の前で、この絵が()けるような男なんやしな。  俺もその点、あんまり人のこと言えんのやけど、(おぼろ)が心配や。  どうなるか。俺の(しき)やし。ほうっとかれへんやん。  それで俺は監視(かんし)しとくことにした。  ()えるんや。  遠いし、普通(ふつう)やったら俺らの立ち位置から、四条大橋(しじょうおおはし)はまだ遠すぎて見えへん。  そやけど、気になるなあって、あいつの()を追いかけて、じっと見てたら、なんか()えてん。  自分がその場にいてない、遠くの様子(ようす)や音が、その場に()てるかのように見え、聞こえた。  千里眼(せんりがん)ていうねんて。後で知ったところによると。  ウチも大抵(たいてい)()えてますえ、と、おかん言うてた。  遺伝(いでん)やねん、おかんからの。  秋津(あきつ)家には代々、血筋(ちすじ)に伝わる神通力(じんつうりき)のひとつで、俺にもそれが伝わってたんやな。  知らんかった。どうりでおかん、全然知らんはずの()てへんかった場所のことを、手に取るようによう知ってたわけや。  俺が学校帰りにデートしたとか、初めて彼女(かのじょ)とええとこ行ったとか、そういう事も全部知ってた。  なんでやおかん、俺のプライバシーどこ消えた。勘弁(かんべん)してくれやったんやけど、千里眼(せんりがん)便利(べんり)やな。  横断歩道(おうだんほどう)(わた)り、湊川(みなとがわ)は一人で颯爽(さっそう)と歩いた。  (あし)(ふる)えると言うた(わり)には、それを微塵(みじん)も感じさせへん、軽快(けいかい)な美しい歩き方で、のろのろ歩きの観光客(かんこうきゃく)や、地元民(じもとみん)(むれ)れを追い越(おいこ)して、すいすい歩いていった。  あいつとすれ違った人らは、どこか呆然(ぼうぜん)とした目で、あいつを見上げ、振り返(ふりかえ)って二度見(にどみ)三度見(さんどみ)をした。  美しかったからやろう。  一度見たらもう、絶対に(わす)れられへん、そういう威容(いよう)(おぼろ)にはある。  自分の(たましい)が持っている光を、あいつは一個も(かく)してへんからや。  人に(かく)れて()らす(もん)が多い(もの)()の世界では、(めずら)しいタイプと言えるやろう。  あいつは京の(すずめ)やし、ええなあって、(あこが)れをもった注目(ちゅうもく)をもって、(あが)めてもろうてなんぼの、人の心の中に巣食(すく)う神で、妖怪(ようかい)やねん。  (あぶ)なっかしい。(こわ)い。ときどき(がい)がある。見てるとアホにされそう。  けど、(だれ)(みな)、目が(はな)されへん。  そういうもんやもんな、メディアって。  ()たして、おとん、秋津(あきつ)暁彦(あきひこ)(らた)暁雨(ぎょうう)さんのほうは、四条大橋(しじょうおおはし)約束(やくそく)どおり待ってたんか?  待ってた。  そら待ってるわ。自分で(おぼろ)()んだんやもん。  それもすっぽかすほど、ええかげんな男やないで、うちのおとんは。  橋の中ほどの、石造りの欄干(らんかん)にもたれ、おとんは(ひま)そうに、京都の遠い山並(やまな)みを見ていた。  冬の早い黄昏(たそがれ)が山々に(せま)り、茜色(あかねいろ)(くも)がひとつ、ふたつ、遠くに(ただよ)っている。  おとんは(こん)の着物に、古めかしい二重回(にじゅうまわ)しの黒いコートを着てた。  そんな格好(かっこう)してても、京都のこの橋の上では、別に()かへん。  そんな格好(かっこう)してる人が、現代でも普通(ふつう)に歩いてる。  観光客(かんこうきゃく)がレンタルで着てる、(いた)につかへん着姿(きすがた)も、別に全然(ぜんぜん)(めずら)しくはないんやしな。  そやけど、おとんの(まわ)りだけ、時が止まっているように見えた。  がっつり昭和(しょうわ)やった。  古い絵の中におる(やつ)が、そのままそこに立ってるみたい。  そやけど別に、おとんが時代遅(じだいおく)れということやない。  古き良き、昭和(しょうわ)の日本が、そのまま奇跡(きせき)みたいに残ってる。そういう空気やった。  (おぼろ)は当然、ずいぶん手前(てまえ)からおとんに気づき、深く(むね)(ふる)わせるような、息を()んでた。  向こうはぼうっとして、気づいてへん。川見てる。  そやけど、おとんはそんな(にぶ)い男か?  自分の知ってる、かつては蜜月(みつげつ)()ごした、ランウェイの神がやで? それが接近中(せっきんちゅう)なんやで?  そんな(にぶ)いことで、(おに)(わた)り合うような巫覡(ふげき)の仕事がつとまるやろか。  わざと()らん()りしてんのや。おとん。意地悪(イケズ)やなあ。  来たんか、(おぼろ)。ずっと待ってたで。会いたかった。お前が好きや。愛してる。失われた過去を、これからふたりで()(もど)そう。()きしめてキス。そういうのやないんや。どういうことや。  俺の期待(きたい)が大きく(はげ)しく大外(おおはず)れや。  (おぼろ)一瞬(いっしゅん)、よろめくような足取りになったが、気をしっかり持てみたいな顔をして、おとんのほうへ行った。  あと、十メートル。五メートル。三メートル。一メートル……。  (おぼろ)はそこで止まった。それ以上、近づけへんみたいに。

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