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29-64 アキヒコ

 (むね)(いた)いんか、苦痛(くつう)をこらえる顔をして、(おぼろ)(うめ)くように言い、口ごもった。  (おぼろ)はおとんが自分とよりを(もど)すため、橋に呼び出(よびだ)したと思うてたんやろう。  それを素直(すなお)に喜んでいた。  そういう、()()けた歓喜(かんき)の表情が、さっきまでのあいつの顔にはあった。  でも今はそれも、綺麗(きれい)な夢やったみたいに、消えてもうてた。  俺のよう知ってる(おぼろ)の顔や。美しいけど、暗い。心にまだ、血の流れる(きず)を持ってる神さんや。 「これのことやろ」  (いた)(むね)をおさえてた手を、(おぼろ)が開いておとんに見せると、そこに古びた半紙(はんし)でできた紙の人形が立っていた。  (はら)んとこに、俺の知ってるおとんの字で、秋津(あきつ)暁彦(あきひこ)と書いてある。  いつも丁寧(ていねい)な字を書くおとんにしては(めずら)しく、走り書きのような筆跡(ひっせき)で、人形は雨で打たれたように、よれよれになっていた。  それでも、そいつは、最後の力を振り絞(ふりしぼ)るような、途切(とぎ)途切(とぎ)れの声で話した。伝言(でんごん)を。  (おぼろ)(わす)れんといてくれ、と。  (わす)れんといて。(おぼろ)(わす)れんといてくれ。(わす)れんといて、と。  それだけは、絶対に伝えようとするような、(こわ)れかけの声の、必死(ひっし)伝言(でんごん)やった。  これ、おとんが出征(しゅっせい)の直前、(おぼろ)と別れた夜に飛ばしたという、あれなのか。そいつがまだ、(しゃべ)れるとは、俺は(おどろ)いた。  この人形、普通(ふつう)はそう何日も()たへん。  送った(やつ)()めた霊力(れいりょく)しだいで、何日も生きてることはあるんやけど、おとんが出征(しゅっせい)したんはいつやねん。  もう何十年も、こいつ生きてんのやで。  おとんがその伝言(でんごん)()めた、並々(なみなみ)ならぬ(おも)いが、今もそいつを動かしてんのやろう。 「これ……お前はよくも、こんなもん送ってきやがったな。俺はお前にここで()てられて、鉄砲(てっぽう)で頭()ち抜いたわ。それでも死ねんかった。お前から()うた血が、ずっと俺を守ってたんや。戦(いくさ)でお前は死んでもうて、俺がそれでも平気で(わろ)うて、(うた)うとて、生きてくんのが、どんなに……どんな、つらいことやったか、お前こそ、全然(ぜんぜん)、なんにも……分かってへんかったやないか! この……鬼畜(きちく)のアホ(ぼん)が。俺はずっと……お前が、帰ってくるて信じて」  (おぼろ)(あえ)(むね)で、おとんを見つめ、おとんは(おぼろ)を見つめてた。 「待ってたんや……お前を(わす)れた日は一日もない。それを、よくも、俺が分かってへんなんて、言うてくれたわ」  (おぼろ)は手の中にあった紙人形を(にぎ)りつぶして、川に(ほう)った。  もう何も(しゃべ)らへんようになった人形は、ひらひらゴミのように()い、鴨川(かもがわ)の流れに消えた。  (おぼろ)の目から一(つぶ)、二(つぶ)(なみだ)が、(きらめ)きながらこぼれ落ちて来た。  おとんは不思議(ふしぎ)そうに、それを見ていた。  おとんには(じつ)は、心がないんかと、俺は(あや)ぶんだ。  人間みたいな姿(すがた)をしてて、おとんはいつも(あわ)い笑みを()かべている。  (やさ)しいおとんや、俺にとっては。  でも、おとんはとっくの昔に死んでもうてて、(ほね)になってる。  (みんな)が期待して見るような、人間のような心がないんかと、俺は不安になった。  いや、まさか、そんなはずない。おとんは、ちゃんと、帰ってきたんや。  長い時がかかっただけで、俺や、おかんや、(おぼろ)のところにも、帰ってきてくれたんやって、俺は信じたい。  (おぼろ)(なみだ)に心が動かへんはずはない。  そういう美しい(きらめ)きが、その一筋(ひとすじ)(なみだ)にはあった。 「お前がそんな、(うら)み言うんは、これが初めてやな」  訥々(とつとつ)と、おとんは(おぼろ)(ほお)から落ちた(なみだ)()みた、四条大橋(しじょうおおはし)の地面を見て言うた。 「俺はお前がそこまで自分のことを(おも)うてくれてるとは、思いたくなかったんや。もっと気楽(きらく)な遊びで、俺と付き()うてんのやと思いたかった。それは俺の我儘(わがまま)やったやろけど……」  遠い過去を振り向(ふりむ)くように、おとんは夕日の落ちようとする暗い川上(かわかみ)山並(やまな)みを見やった。 「俺をそういう(おも)いで見つめてくれてた(やつ)らは(みんな)、もう、死んでもうたんや。あの(いくさ)()えて助かったんは、お前と水煙(すいえん)だけやった。その他の(やつ)(みな)、死んだ。俺のせいや。お前を連れて行ってたら、お前ももう、ここには()てへんかったやろう」  おとんは今はもう()ない秋津(あきつ)式神(しきがみ)たちの話をしてた。 「(みんな)な、お前も知ってるやろけど、俺を愛してた。そうなるように俺が仕向(しむ)けたんや。それは、妖術(ようじゅつ)やった。あいつらは家と俺に(とら)われてただけや。ほんまにそれが愛やったんか、もう、(たし)かめる術(すべ)がない。唯一(ゆいいつ)、言えるんは、俺がそういう(やつ)らを、使うだけ使(つこ)うて死なせたということや」  おとんの表情は、ぼうっとして見えた。目に(うつ)る、今日の太陽の最後の光が、おとんの無表情な目を暗く(かがや)かせていた。 「俺は屑(くず)や。お前も俺といると死んでまうやろ。俺はな、お前だけは死んでほしくないと思ってたんや。俺から()がしとうて、ここに(ほう)っていった。お(かげ)で今もそうして生きてる。そやのになんでまた、俺みたいなのと(かか)わりたいんや。お前はどないかなってんのやないか」

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