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29-65 アキヒコ

 淡々(たんたん)と、そう話すおとんの内心の絶望(ぜつぼう)の深さが、俺には見えた。  たった一人が死ぬのを看取(みと)るのでも、つらい。  (とおる)が死にそうやった時、俺も死にそうやった。(たましい)引き裂(ひきさ)かれる思いがした。  それをおとんは立て続けに見たんや。次から次へ、(なげ)()もなく(しき)は死んだ。  水煙(すいえん)と自分を守るために、(みんな)を殺した。おとんは、そういう自分を(ゆる)してはいない。(ゆる)すつもりもない。そういう目やった。 「(だれ)か他の、もっとええやつ()ったやろ? 俺みたいなのやのうて、お前を愛して、幸せにしてくれる(やつ)がきっと()る。うちの息子でもええわ。あれはようできた子やろ? 俺の子にしては上出来(じょうでき)やった。あいつではあかんのか。他の(だれ)かでもいい。お前はほんまに、ちゃんと(さが)したんか。お前の、運命(うんめい)相手(あいて)とかいうのんを」  もっと(さが)せと、(うった)える目でおとんは朧(おぼろ)を見て、気遣(きづか)わしげやった。  それと見つめ合い、(おぼろ)(わろ)うた。泣いたままやった目からまた、(なみだ)がこぼれた。 「おらん。(さが)したけど、どんだけ(さが)しても、お前より好きな相手(あいて)がいてへんかった。俺はもうええんや。幸せになろうとか、そういうことは(のぞ)んでへん。ただお前のそばにおって、お前が()く絵を見たいんや。それで死んでも別にいい。もういっぺん俺を、お前のそばにいさせてくれへんか」  これが最後の(たの)みやで。(おぼろ)はそういう顔で、おとんに聞いた。 「お前、案外(あんがい)アホやったんやなあ」  おとんは、しみじみとそう言うた。  (おぼろ)は泣き笑いの顔で、それに(うなず)いていた。 「そうやで。そばに置いて」  (わろ)うてる(おぼろ)の顔を見て、おとんも(わろ)うた。静かな笑みやった。 「お前にずっと言うてないことがあるんや」  おとんは(あわ)い笑みのまま、朧(おぼろ)を見つめた。 「お前が好きやった。初めて()うた時から、ずっとお前が好きで、好きで、(たま)らんかった。お前とずっと、好きな絵を()いて、生きていきたかったんや。でも、俺にはそれが無理やった。お前にそれを言うことさえできひんかった。俺もお前のそばにおってええか。あの夜の、俺が行けへんかった約束(やくそく)の夜の続きを、お前と生きても、ええんやろか……」  そう言う、おとんの体を、(おぼろ)が急に()きしめた。何が起きたんやという顔を、おとんはしてた。 「それは普通(ふつう)の夢や。今の世の中、(だれ)でもできることや。お前が生きたいように生きて、()きたい絵を()けばええんや。(だれ)かに(ことわ)りをいれる必要もないことや。(だれ)もお前を(うら)んでなんかない。俺もそうやで。ただただお前が、(いと)しいだけやねん。お前はただ愛されて、好きな絵を()いたらええんや。死んだやつらの分も、俺がお前を愛してやるわ」  (おぼろ)()きしめられ、そう(さと)されて、おとんは苦悶(くもん)の顔をした。  いつも微笑(ほほえ)んでるおとんが、そんな顔をするのを俺は初めて見た。  苦しい時に、苦しいと言えへんのが、おとんの生きた時代やった。  苦しくても、喜んで、(だま)って死ななあかんかったんや。  ただ好きな相手に、好きやと言うてやる自由すらなくて、おとんは死ぬまで言葉を()んでた。  ()()きも、打算(ださん)もない、()()無しの愛情を、(だれ)かに向けることは贅沢(ぜいたく)やった。  おとんにとっては、(だれ)か一人を愛することは、やったらあかん(つみ)やったんやもん。 「(おぼろ)……お前がいたら(だれ)もいらへん。お前といくわ」  自分を()きしめる(おぼろ)()()いて、おとんは苦しげに、血を()くように言うた。  それは愛の言葉というには、あまりにも身勝手(みがって)罪深(つみぶか)いように、おとんには思えたんやろう。  (おぼろ)(うなず)き、おとんの手を取った。 「行こ。白川(しらかわ)の家、(おぼ)えてるやろ。秋尾(あきお)ちゃんがな、またそこに住めって。登与(とよ)様がな、ずっと置いといてくれたんやって。そこで毎日、絵()いて、歌って遊んで、お前の好きなように生きよう。俺と二人で」  (おぼろ)はにっこりとして、ゆっくり目を(まばた)いた。  白蠟細工(はくろうざいく)のような(まぶた)が開いて、(おぼろ)はおとんのもう一方の手もとった。  片方(かたほう)だけやと足らんのか。  にこやかに、おとんの顔を見上げる(おぼろ)の目が、白目(しろめ)のないガラス玉のような、真っ黒い目やった。  微笑(ほほえ)む赤い(くちびる)に、(するど)い小さな歯がずらりと(なら)んでいても、おとんは変わらず微笑(ほほえ)み返してやっていた。  (おぼろ)の顔は、だんだんぼやけた何もないのっぺらぼうのようになり、()けた白蠟(はくろう)でできたように真っ白になっていた。  そこに暗い(あな)のような目と、赤い(くちびる)だけが(わろ)うてる。  薄靄(うすもや)をまとって、何者(なにもん)なのか正体(しょうたい)が分からへん。まさに(おぼろ)や。 「二人っきりでやで? (だれ)にももう、邪魔(じゃま)はさせへん。(だれ)かに見せたら()られてしまうもんなあ。今度こそお前を、家に()()めて、俺だけのモンにするわ」  ほんまに(うれ)しそうに、そう言うて、(おぼろ)(おど)るような足取(あしど)りで、おとんを(かどわ)かした。  白川(しらかわ)の流れが軒下(のきした)を通る、古い家へ。  そこはおとんが(おぼろ)と短い蜜月(みつげつ)()ごした家やった。

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