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29-69 アキヒコ
それはやむを得 んことやというふうに、朧 は言うて、それでも無念 そうに唇 を噛 んだ。
ここに絵を掛 けた誰 かが、今それをこいつに諭 した。
朧 は、言われんでも知っていたその事を、思い出したんやろな。
「坊 はそうやって、結局 、俺だけのもんにはなってくれへんのやな。意地 が悪い、憎 らしい坊々 やわあ」
ぽろぽろ泣いて、朧 は悔 やんだ。
もう、おとんを食う鬼 のようには見えへんかった。
おとんを愛してやまない、白い美しい神の姿 や。
「そんなことないで、もうずっとお前のもんやで?」
困 ったなと、あやすように、おとんは朧 の顔を覗 き込 んだ。
その顔が振り向 いて、おとんに強請 った。
「キスして。長いやつ、して欲 しい……」
涙目 の朧 の寂 しげな顔と見つめあい、おとんは不意 に、苦しげな笑みになった。
好きで堪 らんという、胸 かきむしられた男の顔やった。
目が熱い。お前が欲 しいと言うてる目や。
「またこんな冷たい体になってもうたな」
これから塞 ぐ朧 の唇 を指でなぞって、おとんは抱 いてた白い体をさらにぎゅうっと抱 きしめた。
「俺がまた、熱 うしたろ」
「暁彦 様……」
朧 は何か言いかけたが、キスに塞 がれ、言葉にならへんかった。
おとんはほんまに長いキスをした。今まで離 れていた時を埋 めるような、長い長い抱擁 と接吻 やった。
おとんの背 を抱 く朧 の手が震 えていた。
初めは心細 さに、やがては段々 募 る、深い陶酔 に。
その長いキスが終わり、おとんは朧 の頬 を包 み、まだ見つめ合 うたまま、濡 れた唇 で言うた。
「アキちゃん」
アキちゃん? あっ俺や。
「覗 くのそろそろやめてくれへんか? お前が見てると、おとん悪いことできひんやないか」
シャツの中の朧 の体を愛撫 する手になって、おとんは俺に言うた。
あっこれ、まだやったんか。もっと悪いことがあるんや。
「あんまり見ると、俺もお前のを見るで?」
俺は即刻 やめることにした。はい、やめまーす。
おとんにされるがまま身を預 けて、また喘 ぎ始める朧 の白い顔が美しかったが、もう見ない。
「あっあっ……暁彦 様、そこ、あかん」
どこどこ。どこがあかんとこや。
濡 れた声が耳に残りめっちゃ気になる。
でも、あかん。去 りまーす。お邪魔 さんどしたー。
俺は急速 に去 った。
ふと我 にかえると、俺は祇園 、白川 におって、俺の胸 に覗 き屋の蛇 と狐 がくっついていた。
「ちょ、アキちゃん、ええとこやのに⁉︎ 見られるぐらいが何や! 意気地 なし!」
まだ見たかったらしい亨 がぷんぷん怒 っていた。
狐 は、へえ、としたり顔やった。
「大崎 先生に、暁彦 様の手が空 いたら、僕 らも酒持って朧 ちゃんの家行くから見てこい言われて、見に来てたんですが、これは朝までかかりそうやねえ。お熱 いわ。お邪魔 すんのはまた今度 」
ひひひ、と狐 は忍笑 いして、盗 み聞きしていた俺の胸 から離 れた。
石の一本橋 の下を白川 がさわさわと流れ、狐 の提灯 に照 らされた影 が三つ。
蛇 と、人間と狐 のシルエットが、夜の川波 に洗 われていた。
「先生、心配しはらへんでも、朧 ちゃんはどうもないです。お父さんのこと、愛してんのやし、優 しい子やで。食うたり隠 したりしませんよ」
それを良く知ってるという口調 で、狐 は俺に諭 した。
「愛 しい男はな、世 に出してやってナンボですやん? 閉 じ込 めといても詮無 いことえ」
世界の大崎 茂 を支 える狐 の言葉には、ものすご説得力 があった。
「ほな僕 、戻 りますわ。大崎 先生、焼 き餅 焼 いて暴 れんのやろなあ。おお怖 。懐 かしい懐 かしい……」
夜の祇園 に消えて行く狐 は、ほんまに嬉 しそうに、月を仰 いで言うていた。
微笑 むような月のかかる晩 や。
チラつく小雪 の舞 う夜のどこかに今も、桜 舞 う窓 の部屋があり、そこで朧 とおとんは、束 の間 、愛し合 うてんのやろうなあ。
そやけど心配いらへん。おとんはもう朧 のもんで、それでも家に帰ってくる。
なんでか言うたらな、朧 はおとんが通 ってきて、来たで雀 ちゃん、て、窓辺 で待ってる自分を見上げるのが好きなんやて。胸 がときめくんやって。
それは、おとんを閉じ込めといたら、できひんことなんやもんなあ?
一緒 にはいられへん、切 なく待ってる時間があればこそ、再会 の喜 びと、熱い抱擁 とキスがあるんや。
それがあいつの大好物 やろ。
それから時を待たず、おとんは有名 になってしもた。
メディアの神と愛し合 うてもうたらもう、世 に出るんは時間の問題でしかない。
俺もおかんも水煙 も、全く見たことない、京都の謎 の絵師 の筆 による傑出 した名画 の数々 が、急に世に出た。
すごい絵やった。
それは人の絵やのうて、祇園 の夜の月見台 から見える、桜 や月や、床 に散る赤く鮮 やかな紅葉 の、京都の四季 を描 いた絵やった。
おとんが……いや、謎 の絵師 ・暁雨 さんが、どこでそれを描 いたんか、俺には分かる。
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