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30-01 トオル

 アキちゃんはまた、絵を()いていた。  嵐山(あらしやま)秋津(あきつ)の家で、弟の蜜柑(みかん)太郎(たろう)が生まれ、弓彦(ゆみひこ)と名付けられた。  そのショックという(わけ)やないんやろうけど、これまで()きあぐねていたようやった卒業制作(そつぎょうせいさく)の絵を、突然(とつぜん)()き始めたんやった。  大学の絵画室(かいがしつ)(こも)り、()がな一日(いちにち)、朝から(ばん)まで、何かに取り()かれたように()く。  今度の絵は、日本画やった。アキちゃんは日本画学科の学生やからな、卒制(そつせい)も日本画でないとあかん。  それを別にしても、アキちゃんの心に()いた絵は、日本画でないとあかんかったようや。  おとんの絵を見たせいやろう。  嵐山(あらしやま)の家で、水煙(すいえん)(さが)し出した(おぼろ)(りゅう)の絵を見たときのアキちゃんの顔は、今まで見たことのない顔やった。  敵と出会(でお)うた。これまで出会(でお)うたことのない、相手にとって不足(ふそく)のない敵を見つけたという、(うれ)しそうな、それでいて、怖気(おぞけ)だったような顔や。  実際、アキちゃん鳥肌(とりはだ)立ってた。よっぽど、ゾワって来たんやろうな。  絵の中に、おとんがおって、お前はこれを()えてこられるか、って言うてるような気がするんやって。  おとん、そんなこと言うてへんで?  アキちゃん、蜜柑(みかん)食うか?言うて、平和に嵐山(あらしやま)の家で(すわ)ってるだけの、楽隠居(らくいんきょ)(じい)さんで、見た目は(わか)いけど、やってることは(じい)さんや。  アキちゃん来たら、鬼道(きどう)指南(しなん)をぽつぽつしたり、(けん)稽古(けいこ)をしてやったりはするけど、いつもにこにこ(あわ)い笑みで、アキちゃんとの対決(たいけつ)()けている。  おとんの(けん)は本気やないって、アキちゃんはボヤいとる。  いつも寸止(すんど)失敗(しっぱい)しやがる新開(しんかい)師範(しはん)(けん)には、アキちゃんを殺しに来てる(すご)みがあった。  ()けな()たれる。木刀(ぼくとう)やし、別に()れる(わけ)やないけど、今にして思えば、あの人かてひとかどの巫覡(ふげき)や。  ()はついてない(けん)にも、()められた通力(つうりき)があって、アキちゃんをほんまもんに(きた)え上げようという、気迫(きはく)がみなぎっていた。  それに対して、おとんの(けん)はなまくらや。  上手(うま)いし、速いけど、息子の(けん)(たわむ)れてるだけ。  休日に息子とキャッチボールするお父さん程度(ていど)。  アキちゃんを殺(や)るような、(みなぎ)るもんは何もない。  演武(えんぶ)を見てるような、殺意(さつい)のない太刀筋(たちすじ)や。  それはアキちゃんにも分かるようやった。  アキちゃんはおとんと(けん)稽古(けいこ)をすると、ありがとう勉強なったわ、とにこやかに(れい)は言うて帰るものの、出町(でまち)(もど)る車の中で、機嫌(きげん)が悪かった。何を考えてんのか。  おとんに相手(あいて)にされてない。おとんは俺とやる気がないんや。そう言うことをボヤいてたな。  おとんはもう、アキちゃんを(きず)つける気が一切(いっさい)ない。  可愛(かわい)可愛(かわい)い息子やし、怪我(けが)したらあかん。戦いとうない。  身内(みうち)に手をかけることへの(おそ)れが、おとんの太刀筋(たちすじ)にはあるんや。  アキちゃんがおとんと真剣(しんけん)勝負(しょうぶ)できるんは、絵の中をおいて他にない。  おとんが受けて立ってくれるかは、分からん。  そやけど、おとんの先制(せんせい)攻撃(こうげき)で、この手合(てあ)わせは始まっている。  おとんの絵は二十八(まい)あった。  全て、かつて秋津(あきつ)家に(つか)え、おとんを愛してた式神(しきがみ)たちの絵、今はもういない、死んでもうた神々の墓標(ぼひょう)のような絵や。  (おぼろ)(のぞ)けばな。  おとんは、そいつらを殺すつもりで絵に()いた。  もう死んでしまうと思ってたから、せめてその雄姿(ゆうし)を、()りし()の美しい姿(すがた)を残そうとして、全身全霊(ぜんしんぜんれい)からの(おも)いをこめて絵にした。  鬼気(きき)(せま)る、息詰(いきづ)まるような筆使(ふでづか)い。  羽毛(うもう)の一本一本まで、手に()れられるみたいな写実性(しゃじつせい)と、それでいて技巧(ぎこう)繊細(せんさい)さだけに(とど)まらん、躍動感(やくどうかん)。  どこを取っても完璧(かんぺき)で、()()(どころ)がない。  その二十八(まい)の絵は、アキちゃんを(たた)きのめした。  静かやけど、容赦(ようしゃ)のない先制(せんせい)攻撃(こうげき)やった。  そうやったから、アキちゃんは、自分も二十八(まい)の絵を()くことにした。  おとんの()るった太刀(たち)(こた)える、これが俺の絵や、これが俺やという、アキちゃんの全身全霊(ぜんしんぜんれい)をかけた絵や。  それを()こうというんやから、まあ、大変やな。  残り期間(きかん)もわずかしかない。もう十一月で、卒制(そつせい)は年明け一月には提出(ていしゅつ)せなあかん。もう必死やわ。  本間(ほんま)くん、卒制(そつせい)はな、一(まい)()けたら()りるんやで。そんなぎょうさん()く必要ないんや。無理せんとき、って、(その)先生が心配して言うてた。  だってな、アキちゃん、ほんまにほとんど()えへんし、(めし)も気が()る言うて食わへん。()き続けてる。  心配にもなるよな。おっちゃん、アキちゃんに()れてんのやもん。  アキちゃんの絵にやで。たぶんな。  アキちゃんにか? 知らんわ、ちょい(やく)のおっちゃんの気持ちなんかな。  俺はあんまり、心配はしてへん。  絵を()くアキちゃんのことを、(れい)の目で見ると、(あま)(かお)る熱い霊水(れいすい)(つつ)まれていて、気力も体力も()(あま)るほどにある。  アキちゃんはもう、普通(ふつう)の体やないし、普通(ふつう)絵師(えし)やない。  天地(あめつち)の加護(かご)()て、()き続けられる超人(ちょうじん)や。  そやから、思う存分(おもうぞんぶん)()かせてやりたいねん。

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