863 / 928
30-01 トオル
アキちゃんはまた、絵を描 いていた。
嵐山 の秋津 の家で、弟の蜜柑 太郎 が生まれ、弓彦 と名付けられた。
そのショックという訳 やないんやろうけど、これまで描 きあぐねていたようやった卒業制作 の絵を、突然 描 き始めたんやった。
大学の絵画室 に篭 り、日 がな一日 、朝から晩 まで、何かに取り憑 かれたように描 く。
今度の絵は、日本画やった。アキちゃんは日本画学科の学生やからな、卒制 も日本画でないとあかん。
それを別にしても、アキちゃんの心に湧 いた絵は、日本画でないとあかんかったようや。
おとんの絵を見たせいやろう。
嵐山 の家で、水煙 が探 し出した朧 の龍 の絵を見たときのアキちゃんの顔は、今まで見たことのない顔やった。
敵と出会 うた。これまで出会 うたことのない、相手にとって不足 のない敵を見つけたという、嬉 しそうな、それでいて、怖気 だったような顔や。
実際、アキちゃん鳥肌 立ってた。よっぽど、ゾワって来たんやろうな。
絵の中に、おとんがおって、お前はこれを越 えてこられるか、って言うてるような気がするんやって。
おとん、そんなこと言うてへんで?
アキちゃん、蜜柑 食うか?言うて、平和に嵐山 の家で座 ってるだけの、楽隠居 の爺 さんで、見た目は若 いけど、やってることは爺 さんや。
アキちゃん来たら、鬼道 の指南 をぽつぽつしたり、剣 の稽古 をしてやったりはするけど、いつもにこにこ淡 い笑みで、アキちゃんとの対決 を避 けている。
おとんの剣 は本気やないって、アキちゃんはボヤいとる。
いつも寸止 め失敗 しやがる新開 師範 の剣 には、アキちゃんを殺しに来てる凄 みがあった。
避 けな打 たれる。木刀 やし、別に斬 れる訳 やないけど、今にして思えば、あの人かてひとかどの巫覡 や。
刃 はついてない剣 にも、籠 められた通力 があって、アキちゃんをほんまもんに鍛 え上げようという、気迫 がみなぎっていた。
それに対して、おとんの剣 はなまくらや。
上手 いし、速いけど、息子の剣 と戯 れてるだけ。
休日に息子とキャッチボールするお父さん程度 。
アキちゃんを殺(や)るような、漲 るもんは何もない。
演武 を見てるような、殺意 のない太刀筋 や。
それはアキちゃんにも分かるようやった。
アキちゃんはおとんと剣 の稽古 をすると、ありがとう勉強なったわ、とにこやかに礼 は言うて帰るものの、出町 に戻 る車の中で、機嫌 が悪かった。何を考えてんのか。
おとんに相手 にされてない。おとんは俺とやる気がないんや。そう言うことをボヤいてたな。
おとんはもう、アキちゃんを傷 つける気が一切 ない。
可愛 い可愛 い息子やし、怪我 したらあかん。戦いとうない。
身内 に手をかけることへの恐 れが、おとんの太刀筋 にはあるんや。
アキちゃんがおとんと真剣 勝負 できるんは、絵の中をおいて他にない。
おとんが受けて立ってくれるかは、分からん。
そやけど、おとんの先制 攻撃 で、この手合 わせは始まっている。
おとんの絵は二十八枚 あった。
全て、かつて秋津 家に仕 え、おとんを愛してた式神 たちの絵、今はもういない、死んでもうた神々の墓標 のような絵や。
朧 を除 けばな。
おとんは、そいつらを殺すつもりで絵に描 いた。
もう死んでしまうと思ってたから、せめてその雄姿 を、在 りし日 の美しい姿 を残そうとして、全身全霊 からの想 いをこめて絵にした。
鬼気 迫 る、息詰 まるような筆使 い。
羽毛 の一本一本まで、手に触 れられるみたいな写実性 と、それでいて技巧 の繊細 さだけに留 まらん、躍動感 。
どこを取っても完璧 で、非 の打 ち所 がない。
その二十八枚 の絵は、アキちゃんを叩 きのめした。
静かやけど、容赦 のない先制 攻撃 やった。
そうやったから、アキちゃんは、自分も二十八枚 の絵を描 くことにした。
おとんの振 るった太刀 に応 える、これが俺の絵や、これが俺やという、アキちゃんの全身全霊 をかけた絵や。
それを描 こうというんやから、まあ、大変やな。
残り期間 もわずかしかない。もう十一月で、卒制 は年明け一月には提出 せなあかん。もう必死やわ。
本間 くん、卒制 はな、一枚 描 けたら足 りるんやで。そんなぎょうさん描 く必要ないんや。無理せんとき、って、苑 先生が心配して言うてた。
だってな、アキちゃん、ほんまにほとんど寝 えへんし、飯 も気が散 る言うて食わへん。描 き続けてる。
心配にもなるよな。おっちゃん、アキちゃんに惚 れてんのやもん。
アキちゃんの絵にやで。たぶんな。
アキちゃんにか? 知らんわ、ちょい役 のおっちゃんの気持ちなんかな。
俺はあんまり、心配はしてへん。
絵を描 くアキちゃんのことを、霊 の目で見ると、甘 く香 る熱い霊水 に包 まれていて、気力も体力も有 り余 るほどにある。
アキちゃんはもう、普通 の体やないし、普通 の絵師 やない。
天地(あめつち)の加護 を得 て、描 き続けられる超人 や。
そやから、思う存分 に描 かせてやりたいねん。
ともだちにシェアしよう!