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30-03 トオル

 分からへん。でも、それ以来、犬も文句(もんく)言わへんのも事実や。  あいつは、新しくもらった部屋(へや)に絵と引きこもるようになった。  大丈夫(だいじょうぶ)なんか瑞季(みずき)ちゃんて、心配も(じつ)はしたんやけど、大丈夫(だいじょうぶ)なんやってな。  絵がな、生きてんのやって。  それが()()な、()んだら出てきて、瑞季(みずき)、お前は可愛(かわい)い俺の犬や、愛してるっていうて()いてくれるんやって。  あいつから、聞いたんちゃうで。聞こえたの。  聞こえてもうたんやん。俺は耳がええんや。  今もあいつ同じマンションに住んでんのやしな、俺とアキちゃんと犬と、もう一人(だれ)かおるって、夜中にその気配(けはい)をどこかに感じ、ぎょっとして、耳すませたら、聞こえるんや。  瑞季(みずき)、おいで。一緒(いっしょ)()よかという(やさ)しいアキちゃんの声が。  死ぬほどビビって、ベッドの(となり)を見たら、アキちゃんが()てる。  どないしたんや(とおる)、と言って、いつも通りに俺を()く、アキちゃんの(やさ)しい(うで)が、偽物(にせもの)とはとても思われへん。  俺を愛してるって見つめてくる目にある、俺への愛が、()ったようには見えへんねん。  結局(けっきょく)、俺は()り切るしかない。  あれは(まぼろし)。犬は(ゆめ)でも見てんのやろう。  アキちゃんがあいつにくれてやった、(あま)い夢に()かれて()とるだけで、あの可哀想(かわいそう)な犬には、それぐらいくれてやろかと。思うしかない。  ちょっと()ける。けっこう()けるけど、時々はな……。  でも、犬とどつき()うたり、犬が辛気臭(しんきくさ)い顔して家で死んどったり、アキちゃんが三日に一回ぐらいトイレで腹蔵虫(ふくぞうむし)ゲロるよりは、ずっとええわ。  楽になったわというのが、まあ、本音(ほんね)や。  これにて一件落着(いっけんらくちゃく)やな。もう、しゃあない。一件落着(いっけんらくちゃく)や。  犬は元気にワンワン!言うて大学に行き、またCG()で勉強してるわ。  普通(ふつう)に大学生やって、卒業して、普通(ふつう)に人間として生きていくんやって、とりあえず。  堕天使(だてんし)狗神(いぬがみ)は、()(しの)ぶ仮の姿(すがた)。  必要あれば変転(へんてん)するけど、勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)はれっきとした人間や。  アキちゃんの式神(しきがみ)やけど、あいつ学生なんやし、まずはしっかり勉強せえって、そういうことになってんねん。  アキちゃんがあいつの保護者(ほごしゃ)で、なんと学費(がくひ)はアキちゃんが(はら)っている。  それも手続き上のことで、秋津(あきつ)の家には金がうんうん(うな)ってるみたいやしな、犬一匹の学費や生活費を(はら)うぐらいのこと、なんでもないんや。  その金をどの銀行口座(ぎんこうこうざ)から()()むか程度(ていど)事務手続(じむてつづ)き上の問題でしかなく、家督(かとく)()いだアキちゃんにとっては、じつは全部が俺の金ってことなんやけど、それでも、絵()いて(かせ)いだ自分の口座(こうざ)から、犬を(やしな)うんやって。  前に絵が売れてできた分が、何千万かあるんやしな。犬()うぐらい、アキちゃんにとっては、なんでもないことや。自分で面倒(めんどう)見られる。  それで全部が終わりや。一件落着(いっけんらくちゃく)。そうやな。そうしとこうか。  アキちゃん、(あし)かに、よう頑張(がんば)ったんやろな。あいつにしては。  散々(さんざん)(なや)んで、ゲロも()いて、五キロぐらい体重も()ってもうて、それで出た結論(けつろん)なんや。  ようやったなと()めてやって、微笑(ほほえ)んでやるんが愛や。  水煙(すいえん)みたいにな。  分かってくれ、か。しゃあない。俺もよう分かったよ、アキちゃん。  そやけど、お前またマンションに全然(ぜんぜん)帰ってこんようになったで。  大阪(おおさか)の事件の時とまるで一緒(いっしょ)やで。  何か進歩した?二の舞(にのまい)振り出(ふりだ)しに(もど)ったんですか?  めっちゃ絵()いてるアキちゃんを、絵画室(かいがいしつ)(ゆか)に見て、俺は(かべ)()()け、わなわな来てた。  アキちゃん、(めし)食うたら?俺また差し入れを持って来てやったんやけど。  今度は和食やけど。犬が、先輩(せんぱい)パンよりご飯のほうが好きですよって真顔(まがお)で言いよるもんやから、ご(はん)にしたけど、全然(ぜんぜん)食わんで、こいつ。  ()せたし心配してるんやないか。(さっ)せ。  なんか大人っぽくなってもうたし、ええんかもやけど、でも俺、心配。  (ゆか)()うようにして、一心不乱(いっしんふらん)に絵()いてるアキちゃんは、若干(じゃっかん)ボロボロ。(つか)れてはいるはず。  目はらんらんとしてて、気力が(みなぎ)ってるけど、アキちゃん二徹(にてつ)やって。トミ子が言うてた。そろそろ()たほうがええんやないのー、って。  でも今()いてる絵が、あとちょっとで完成しそうやって、アキちゃんは(ふで)を止めへん。  (ほね)が人食うてる絵やった。  (ほね)が鯰(なまず)んとこに人を()れていく。  体術使う(ほね)が、(おそ)いかかってくる絵で、見てて(こわ)い。  その絵と向き合い、一心(いっしん)()いてるアキちゃんも、ちょっと(こわ)いぐらいやった。  仕上(しあ)げの(ふで)を絵に走らせ、アキちゃんは(けわ)しい顔で絵を見た後、急にはあーっと長い息をついた。 「できたわ。これで完成にする」  そう言うて、アキちゃんが(ふで)を置くと、トミ子がホッとしたふうに喜び、ようできたわあ、お疲れ様て言うて、絵を仕舞(しま)った。  これであと、八(まい)やねって、言うて。

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