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30-04 トオル

 アキちゃんはそこで、俺がおるのに気づき、びっくりしていた。  (とおる)、いつ来たんやって言うて、にこにこ近づいてきて、もう二時間ぐらいおった俺のそばに、寄り添(よりそ)うてきた。(だれ)がおっても御構(おかまい)いなしやった。 「(はら)()ったんか、(とおる)」  (いと)おしそうに俺を見て、アキちゃんはちょっと()れくさそうやった。 「ごめんな、家に(ほう)ってて。あともうちょっとの辛抱(しんぼう)やで」  まあ、あと八(まい)やもんな。って、八(まい)もあるで。  大丈夫(だいじょうぶ)か? ()()うか? アキちゃん。 「やばい、俺、(きたな)いで。風呂(ふろ)入ってへんもん」  精進潔斎(しょうじんけっさい)して()かなあかんもんやって、そういう口調(くちょう)で俺に言うて、アキちゃんは遠慮(えんりょ)しながら俺を()いた。  そんなん、平気やで。  平気やけど、お前は平気なんか。それに犬は。トミ子は。  お邪魔(じゃま)やわあって、ふあーっと消えるトミ子と、見たくもないわって部屋(へや)から出て行く犬とを見て、俺はちょっと(あせ)ってた。  こんなとこで()きしめてくれへんでもええで、アキちゃん。  いろいろ面倒(めんどう)やないんか。後で犬と()めへんか。  俺は(うれ)しいけど。そら、(うれ)しいんやけどな。  (うれ)しい。アキちゃんの(むね)、アキちゃんの(うで)や。  一瞬(いっしゅん)でそういう(あま)陶酔(とうすい)()いて、ただぎゅっと()き合うだけの抱擁(ほうよう)に俺は、絵画室(かいがしつ)の古びたガラス(まど)の横で、うっとりとした。  キスしてええかってアキちゃんが小声(こごえ)で聞くから、俺がしてやった。  (あたた)かい(くちびる)()れて、すごく()たされる。アキちゃんの愛で。  (あま)い、文字通り(あま)い、霊水(れいすい)口移(くちうつ)しの、ものすごく(あま)いキスやった。  (えさ)やりかよ!  まだ平気やで。けど、ありがとうやで。ごちそうさんでした。  いろいろ()たされて、それでも俺はまだ(せつ)なかった。  まだ()たされてないとこある。アキちゃんと家で、(はだか)()き合いたい。 「今夜はマンション帰るわ。いっぱいやろな」  今度はキスするためのキスを、軽く(ついば)むようにして、アキちゃんはその、とろけそうに(あま)約束(やくそく)を俺にくれた。  そして、俺の(こし)()()せて、(ほお)に手を()え、(した)(から)める長いキスをした。  (その)先生が、(こし)()かしてた。  おっちゃん、いたんや。()るの、俺は知ってた。たぶんアキちゃんも知ってはいるんやと思う。  先生、アキちゃん心配なのと、絵が見たいのとで、ちょいちょい来てる。この時も()た。  そやけどアキちゃん近頃(ちかごろ)(だれ)はばかることなくキスするようになった。  俺がそうして()しいって言うたわけやない。  言うたけどな、前は言うとったけど、でもアキちゃんは、そんなんやれる子やなかったやん。  ()れ屋なんやし、見られとうない。普通(ふつう)やないしな。  そやから言うてただけやん、俺も。  でも今、アキちゃんは俺を()いてる。そうするのが自然やっていう、何気(なにげ)なさで。  もしかして、おとんの影響(えいきょう)か。  あの夜に見た、おとんと(おぼろ)はお(あつ)かったよな。愛し()うてた。  それが、美しいわとアキちゃん思うたらしいわ。美しい。  心底(しんそこ)求め合う恋人(こいびと)同士(どうし)抱擁(ほうよう)は、()ずかしいことなんか何もない。美しいんやって。  そしてその美しい抱擁(ほうよう)で俺を(つつ)む。  (とおる)ちゃん、幸せや……。  でも、アキちゃん。おにぎり食え。  お前めっちゃ()せたで。俺の手料理(てりょうり)(せい)をつけてくれ。おにぎりに焼肉()()んどいた。  そう言うと、美味(うま)そうやなあて、アキちゃん食欲(しょくよく)()いたみたいやったんで、二人でお弁当(べんとう)食うことにしたわ。  (その)先生も食うかって、俺は一応(いちおう)聞いたが、先生は(はげ)しくドギマギしつつ、いや、いやいやいやいや、俺はええわ、ほなまた言うて、(ころ)がるようにして()っていった。  あはは。ビビっとるわ先生。アキちゃんの俺への愛に、魂消(たまげ)たな。 「あと何()くん?」  絵画室(かいがしつ)の古い丸椅子(いす)を二個持ってきて、()()かいでおにぎり食うてるアキちゃんに聞くと、考えてる顔でアキちゃんは答えた。 「蔦子(つたこ)さんと啓太(けいた)大崎(おおさき)先生と白狐(びゃっこ)秋尾(あきお)さん。それから、中西(なかにし)さんと神楽(かぐら)さん」  アキちゃんがそう言うんで、俺はほうじ茶を()きそうになった。  中西(なかにし)さんて、藤堂(とうどう)さんやんか。  あの悪いおっちゃん()くの? 神楽(かぐら)(よう)()くの?  ネタバレやし見たらあかんでっていう絵の下書きを、アキちゃんは渋々(しぶしぶ)、ヴィラ北野(きたの)夫婦のやつだけ見せてくれた。  ほうじ茶、さらにブーや。  なんやこれ。エロや。  別にただ()()うてるだけの(むね)から上の絵やけど、藤堂(とうどう)さんのドレススーツの背中(せなか)()うてる神楽(かぐら)(よう)の指が、なんかめっちゃエロい。  それにあいつの目が、今すぐやろうみたいな目や。  自制心(じせいしん)のないアホやったら、この絵の前に立っただけで、(ふく)()いで飛びかかってくるで。  そういう、危険(きけん)な空気の(みなぎ)っている絵やった。  (よう)ちゃんの(うす)く開いた(くちびる)が赤い。  赤いんやろうなって、鉛筆画(えんぴつが)やのに分かる。  その(くちびる)に、いかにも血が()しそうな(きば)(のぞ)いてる。  美味(うま)そうな藤堂(とうどう)さんの首筋(くびすじ)が。頸動脈(けいどうみゃく)が見える。  これ、美味(うま)そうやなあ。  あかんから、こんないけない絵を()いてもうたら!  (とおる)ちゃんモジモジ来ちゃうやないか。

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