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30-05 トオル
「できてから見て」
アキちゃん、俺からさっと紙を取り上げてしもた。
ああ、見たい。見たいけどつらい。見ても見なくてもつらい。なんという罪深 い罰当 たりな絵や、アキちゃん。
「これ、出来上 がったら中西 さんに贈 ろうと思うんや。油絵 やないけど、ええんかな。お前の絵と交換 してもらおと思て。前の絵がでかかったし、なるべく大きめに描 くわ」
アキちゃんが言うてる俺の絵は、蛇神 が暁月 を愛 でてるやつで、かなり大きい。藤堂 さんの地下の寝室 の壁 に飾 られている。
そりゃあ、今やこっちの絵の方がしっくり来るやろな。
悪いおっちゃん、いけない破戒 神父 の絵に誘惑 されながら、その破戒 神父 を犯 せるわけや。
魅惑的 ! 外道 の欲 が渦巻 いてる!
「ええんやない……きっと喜ぶやろ」
藤堂 さん、アキちゃんのファンやしな。今や。俺よりアキちゃんの先行 きを心配しているぐらいやで。
本間 先生お元気か、画家になる決心はついたか。もし何かお披露目 のイベントでもあるんやったら、うちにも声かけてくれって、お役にたつ事あったら力になりたいねんて、わざわざ俺にメールしてくるほどや。
モテるなあ、アキちゃん。
画商 西森 にもモテるしな。
あっちのおっちゃんも、本間 先生どないしてはる? 絵、描 いたはる? できたら教えろよって、うるさい。
アキちゃん順風満帆 やな。
あとは無事 、卒業 するだけや。
学校出たら、絵描 きになるんやろ?
どうするつもりや、アキちゃん。
そう聞いても、アキちゃんは迷 い顔 で答えへん。
何を迷 うことがあるんや。お前にできる仕事で、絵描 きほど、合 うてるもんがあるか?
あるな。三都 の巫覡 の王様やんな?
アキちゃん、どうもそれで悩 んでるな。一人で、悩 んでる。ずっと。
誰 かに言えばええのにな。すぐ解決するするのに。
俺は絵描 きなってもええやろか?
そう聞いたら、十人が十人、そないせえ言うわ。
分かってへんの自分だけ。ほんま不器用 な男やで。
「ご馳走 さん。美味 かったわ」
「メシはちゃんと食いや。何やったら俺が三食 持ってきたる」
ほんまやで。亨 ちゃんデリバリーするよ。
めっちゃ愛 やろ。アキちゃんのためやったら、それぐらいのこと、一個も苦 ではないで。
叡電 のって行ったり来たりするでっていう俺に、アキちゃん慌 ててた。
「学食 で食えるし、ええよ。家にも帰るし。こっからの絵は、もっと集中したいんや」
えっ何それ? 来んなってこと?
むっと暗い顔になる俺の手を、アキちゃんは慌 てて両手で握 ってきた。
「お前に内緒 で描 いて、卒制 で見せたい絵があるんや。その時まで秘密 にしたい」
見んといてって、可愛 いこと言うて、アキちゃんは俺に頼 み込 む構 えや。
「犬と二人っきりになりたいだけちゃうやろな」
「それはないわ」
笑って、アキちゃんは俺の不安を一蹴 した。
「あいつは俺より俺の自画像 が気に入ったんや」
冗談 で言うアキちゃんの顔は、冗談 やとは言うてない。ほんまにそうやと思うてる。
「俺もアキちゃんが留守 ん時用に自画像 描 いてもらわなあかんな」
俺がそう言うと、アキちゃんはそれは冗談 やと思うたらしいわ。
あははと苦笑 していた。
俺の手を、アキちゃんは探 して握 った。
「ごめんな、亨 。俺が絵描 く間 、待っといてくれ」
「分かった。分かってるわ。今に始まった事やないやん」
俺はちょっと拗 ねたふりして、つんと顔を背 け、許 してやった。
「ありがとう」
良かった、許 してもらえたわって、アキちゃん素直 にホッとしていた。
そういう、アキちゃんの純粋 さが、急に胸 に来る。
いつか見た、朧 が秋津 暁彦 に言うてやってた言葉が、時々、俺の頭を過 るんや。
お前はただ愛されて、好きな絵を描 いてたらええんやでって、あいつは言うてやってた。
自分が愛した男の何もかもを許す懐 のでかさが、あいつにはあって、俺にもそれが必要やった。
そんなん、全然 簡単 やないんやけどな。
皆 がアキちゃんを見てる。アキちゃんを、欲 しいて言うてる気がする。
この絵が仕上 がったら、そう言う奴 はもっと増 えるんやないか。
神戸の出来事 の後、アキちゃんをぼんくらやと舐 めてた奴 らも、ころっと手のひらを返 したようになり、先生、先生と隅 にも置かんようになった。
大きな渦 が、アキちゃんを中心にして、起きようとしてる。
今はその、まだほんの始めの、嵐 の前の静けさに思えて、俺の胸 はざわざわしてる。
アキちゃんがもう、俺だけのアキちゃんでいてくれる事はない。
水煙 が好きや、犬が好きとか、そういう目の前のことやのうて、こいつは今、雛鳥 の時を終えようとしてる。
くっついた卵 の殻 を振り落 とし、飛び立とうとしてる。
その前の、最後の夜が今やないかって思えて、俺はそれと一緒 に飛んでいけるんやろかって、心配になる。
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