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30-06 トオル

 取り越し苦労(とりこしぐろう)かな。きっとそうやな。  俺がそう思うんは、きっと神戸(こうべ)の事の後遺症(こういしょう)やろう。  もう二度と、アキちゃんと(はな)れたくない。一瞬(いっしゅん)でも、ほんまは(いや)やねん。 「ほな、帰っとく。ごゆっくり……」  アキちゃんに嫌味(いやみ)言うて、俺はお辞儀(じぎ)をし、またアキちゃんを笑わせた。  絵画室(かいがしつ)(あわ)い午後の、冬の()の中に立っているアキちゃんは、それ自体(じたい)まるで絵のように見えた。  ボロボロなってて、絵の具ついてて、(かみ)もボサボサ。全然(ぜんぜん)決まってへん。  そうやけど、絵を()いている。頭ん中でもずっと、絵筆(えふで)を動かしていて、目がどこか、ここではない異界(いかい)を見てる。  そこのおるのに、ここにはいてへん。不思議(ふしぎ)な男やった。  まるで(まぼろし)と付き()うてるみたいやわ。  また絵を()くらしい、真っ白な紙を取り出してきて、新しい世界にこれから飛び込むような顔で、アキちゃんがその前に立ってるのが見えた。  絵筆(えふで)(にぎ)って、それを見てる。  お前は今、おとんと向き()うてんのやな。親やない、同時代(どうじだい)を生きている、もう一人の天才と。  相手は(なび)いてくれるやろうか。()ち返してきたお前の太刀(たち)に、立ち()うてくれるか。  いざ尋常(じんじょう)に勝負。そういうことやな。  紙に(かが)()み、また()き始める(いと)しい男の()を見てから、俺は絵画室(かいがいしつ)を出た。  そしたら廊下(ろうか)に犬がおった。  勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)や。ほんまもんの犬やない。  勝呂(すぐろ)はイヤフォンで音楽か何かを()いていた。  こいつも耳ええんやもんな。聞きたくない話を聞かんで()むよう、予防線(よぼうせん)()ったんやろう。  頭ええな。聞かんかったらええんやもんな。まだマシや。  俺は廊下(ろうか)(かべ)にもたれている犬の()をつついて、()んだ。  犬はびっくりしたみたいやった。  俺がまさか声かけてくるとは、思いがけへんかったんやろう。  俺ら家では全然(ぜんぜん)口きかへん。()けてんねん、お(たが)いに。  そんなん、しょうがないやんか。  そやけど、こいつも家族やない? 一緒(いっしょ)に住んでんのやし。同じ(かま)(めし)を食う(なか)や。  声ぐらいかけよか。そこに()るんやもんな。 「アキちゃん、(たの)むで。また絵、()いてるわ。俺は帰れて言われたし、お前が(たよ)りや。死なんよう見張(みは)っといて」  俺はコートのポケットに手を突っ込(つっこ)んだまま、犬に(たの)んだ。  瑞季(みずき)はびっくりした顔で、イヤフォンを引っ張って外し、ちょっと緊張(きんちょう)した声で俺に(うなず)いた。 「はい……」 「さっき、(めし)食わしたし。夜は家帰るて言うとったわ。ほんまかどうか知らんけど、そういうことやし、よろしゅうな」  俺がそう言い置いて帰ろうとしたら、犬が急に(あせ)った(ふう)に、早口に言うた。 「俺、今日、帰れません。先輩(せんぱい)の絵見てサボっとったら、自分の課題(かだい)が間に合わへんようになってもうて。CG(とう)に……()まります……たぶん、明日まで?」  お前、いま、(うそ)ついてるな?  何でか俺にはそれが分かって、また犬の前に(もど)り、じいっと勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)可愛(かわい)げのある顔を見下ろした。  俺にはまだ、こいつに微笑(ほほえ)んでやるような度量(どりょう)はない。  水煙(すいえん)が、俺に時には(やさ)しいみたいなとこは、俺にはないんや。まだ。  まだな。でも、いつかはそれが、必要なのかもしれへんな。  俺らはチームなのやし、こいつは俺に道を(ゆず)った。負けを(みと)めてる相手を、いつまでもドツキ回すのは、武士道(ぶしどう)(もと)るよなあ。  俺、全然(ぜんぜん)武士(ぶし)ちゃうねんけどな? 「あっちにええ男引っ張り()んで、ええことした後、食おうとしてんのか?」 「そんなことしません。先輩(せんぱい)約束(やくそく)したしたし、自分を大事にするって。それに人も、食うたらあかんのやで……」  (だれ)がいつ(さと)したんか知らん。  たぶん絵の中の男やろ。  こいつが素直(すなお)に言うことを聞く相手は、そのへんやろうな。  そいつはお前に(やさ)しいか。()いて気持ちようしてくれてんのか。  犬のどことなく(かど)のとれた、(あま)い顔を見てると、なんかそんな気がした。  こいつももう、悪魔(サタン)ではない。アキちゃんに一(ばん)たっぷり()いてもろうて、ああ幸せやってなった時の俺と、同じ目をしてる。  (だれ)かが、お前を()たしてんのやな。少なくとも、お前の身体(からだ)を。 「分かってて安心したわ。人食うたらあかんで。水煙(すいえん)()られてまう。あいつほんまに容赦(ようしゃ)せえへんやろ?気付けや」  ほなな、って俺は犬に手を()って、帰ることにした。  別棟(べっとう)の古いコンクリート()きの廊下(ろうか)に、寒々(さむざむ)しい足音(あしおと)(ひび)く。 「あのう……!」  まだ何か言いたいことがあったんか、勝呂(すぐろ)瑞季(みずき)は俺の()に聞いた。 「明日の夜は、帰ってもいいですか? 俺も、そっちに……」  あかんて言われたらどないしようっていう宿無(やどな)しの(つら)で、犬は俺に聞いた。  アホか、そんなんアキちゃんに聞け、あいつの家や。俺は居候(いそうろう)や。 「帰ってきてええよ。お前の家やろ」

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