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30-09 トオル
「知らん。今日はまだ連絡 がない」
それが異常 なことというふうに、朧 は言い、真顔 で煙草 を燻 らせていた。
お前ら毎日、連絡 取り合 うてんのや。お熱 いな。
おとん、案外 マメやな。びっくり。ちょっと意外 や。
「本間 先生は?今日も絵描 いてんのか?」
「そうやで……」
お店のお姉ちゃんが、俺にもゼリーポンチを持ってきてくれた。
店の照明 にもキラキラ輝 く、メルヘンな飲みもんや。
妖怪 がふたり、差 し向 かいで飲むもんやないな。
「卒業制作 ?間 に合 うんか? 実は俺も取材 に行くんやで。卒業制作展 」
「え、そうなん? なんで?」
「地元 のな、ネット系 のニュース番組があってな。なんていうたかな……」
眉間 に淡 い皺 寄 せて、怜司 兄さんはやっとゼリーポンチを飲んだ。
ちょっとだけやった。この人あんまり飲み食いせえへんのや。
でも何も注文せえへん訳 にいかへんし、これちょうだいって、店の看板 商品を注文したんやったやろ。
「忘 れた。とにかくネットの番組や。レポーターやってみてって言うから、ええよって言うてん。そこのスケジュールに、先生とこの大学の卒制 があった」
お前、自分が契約 した相手の名前を知らんのや。雑 やなあ。
それでよう仕事になってるなあ。ちゃらんぽらんやわ。
それでいて、必要なとこは押 さえてるってことなんやんな。
「間 に合 わへんかったら格好 ええな!」
それがおもろいみたいに言うて、ストローでゼリーポンチぐるぐる混ぜながら朧 は笑 うてた。
そんなん言うなやで、不吉 ですやん。
言霊 ですよ兄さん。
悪いこと言うたらあかんえって、アキちゃんのおかんに叱 られるで?
「間 に合 うよ……寝 ないでずっと描 いてんのやで。どんなんしても絶対 、間 に合 わせてくるわ。おとんと戦うために必死で描 いてんのやから」
「なにそれ?」
屈託 のない笑みで、朧 はアホみたいにナニソレー言うてた。
お前のそういう顔、寛太 を思い出すわ。
アホやったなあ、あいつも。あの頃 はな。
「なにそれ、やないよ。お前のせいやんか。お前がアキちゃんのおとんの絵を、高島屋 の画商 に売ったやろ。それで今、展示 されてるやつ、アキちゃん見てもうたんやん。もう、な、震 えとったで。生まれたばかりの子鹿 のようやったで」
ほんまにブルブル来てたで。アキちゃん。絵に二メートルぐらいまでしか近付けへんねん。
朧 が白川 の家で暁彦 様からもらって、秘蔵 してたという、京都の四季 を描 いた四連作 や。
ちらちら雪の降 る窓 に、霜 の降 りた例 の月見台 が描 かれていて、大きな月が出てる絵や。
そこに赤い襦袢 が脱 ぎ捨 ててあって、霜 つく露台 の床 に、裸足 の足跡 が残ってるんや。
寒風 の中で脱 ぎ、肌 を晒 して、こっちに近づいてきて、もう絵の中にはいない、誰 かの足跡 や。
どう考えても朧 や。
そこには誰 も描 かれてへんのに、誰 かおる。しかもすごく近くに居 るような、息 づかいや、肌 の匂 いまで分かるような絵や。
捨 てられた襦袢 の周 りだけ、肌 の温 みで霜 が消えてる。そのほの温 い、肌 の気配 を感じる。
そこが扇情 的や。すごい、ってアキちゃん言うねんけど、そらあ、しゃあないで。
怜司 兄さんみたいな妖怪 との色事 に明 け暮 れたおとんと、精神的 にはほぼ童貞 みたいなお前が、同じもんを描 けるわけない。
アキちゃん。童貞 みたいな絵を描 けばええんやで。それがお前の絵や。
「俺、売ってへんで。絵は貸 しただけ。俺の男の絵を、ちょっと世に出そうと思うてん。一人で見てても勿体 無いしな」
にやにやして、朧 は惚気 た。
にやにやすな!ムカつく!
「黙 ってギャラリー連 れていったら、暁彦 様びっくりしてた。けっこうな盛況 やったでえ。買い手もついたらしいけど、死んでも売らへんて言うたったわ」
だって俺のもんなんやもん、て、怜司 兄さんウネウネとぐろ巻 いてた。
うざい。その話はいい。
おとん、知らんかったんか。自分の絵が人目 に晒 されてんのを。
売る気もないのに画廊 に絵を飾 るとは。朧 。調子 乗りすぎやで。
いっぺん人目に晒 した絵は、勝手に一人歩きするんやで。
おとんの絵を見て、欲 しいていう奴 がおったんやろ。
それはこのままでは収 まらへんで。
実際、画商 西森 、俺んとこ電話してきたで。
謎 の絵師 ・暁雨 さんの個展 を見たでって。
あの絵が先生のとこと縁 つづきやってほんまですか、うちで扱 わせてもらえるよう、お口添 えしてもらわれへんやろうか、後生 やから、と口説 き倒 したんで、アキちゃん余計 なプレッシャー感じてもうて、さらに絵画室 にお籠 りや。
自分も悩 んで絵描 いてる時に、親とはいえ別の絵師 の絵を西森 が褒 めちぎるのは、つらい。それがアキちゃんの本音 やろう。
「暁彦 様は、まだ絵描 く気にはならへんのやん。まだ傷 ついてる。そやけど、このまま百年二百年、ぼうっとしてる訳 にもいかへんやんか。俺が背中 を押 してやったんや」
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