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30-10 トオル

 俺、(わる)ない、俺、(えら)いっていう顔で、(おぼろ)はふんぞり(かえ)っていた。 「大丈夫(だいじょうぶ)や。(きず)ついてようが、あいつは天才や。必ずまた絵筆(えふで)(にぎ)る日は来る。後は俺がなんぼでも時間かけて(いや)していくよ」  お前めっちゃ献身(けんしん)的やん。そんな(やつ)と思うてへんかった。  ちょっと気持ち的に()くし()ぎやない?  ご都合(つごう)の良い性奴隷(せいどれい)みたいにならへんとええけどな。  暁彦(あきひこ)様、悪い子っぽいで、俺が見る(かぎ)り。アキちゃんほど純情(じゅんじょう)やないで。  また()みにじられたら、どないすんの。死ぬで、今度こそ死ぬ。  ああ、もう、兄さん、幸運(こううん)(いの)るよ……。 「それはさておき」  俺の(いの)りなど気づきもせんふうに、にこにこして、怜司(れいじ)兄さんは聞いてきた。 「そっちの家の()らしはうまいこといってるんか。ひとつ屋根(やね)の下にお前と、先生と犬と。それで何とかなってんのか? いろいろ()まった(ころ)やろうと思て、()んでん」  俺の苦労話を聞こうという(はら)か……。(たか)みの見物(けんぶつ)やな、兄さん。 「先生ちゃんと犬に(えさ)やってるか?」  怜司(れいじ)兄さんの心配の(たね)は、俺やのうて瑞希(みずき)か。  まあ確かに、アキちゃん神戸(こうべ)におる時には、ずいぶん犬を()してたもんな。 「まさか、まだ犬、()ってへんの。先生、神戸では寸止(すんど)めやったんやろ。あれは(ひど)いで、そう思わへんか?」 「(ひど)いて……それを俺に聞くほうが、(ひど)ないか?」  俺の気持ちは考えへんのか、兄さん。  煙草(たばこ)()うて、一体何が(ひど)いんやっていう分かってへん顔をする怜司(れいじ)兄さんに、俺はとほほってなってた。 「()ってへんわけやない。たぶん()ってる。見たわけやないけど」 「えっ……そうなん」  まだ()ってへんのかと(わろ)うて非難(ひなん)がましかったくせに、怜司(れいじ)兄さんは目が(てん)なってた。予想(よそう)してへん事態(じたい)やったらしい。  まあ、そうやろな。あのアキちゃんが、俺と犬とに二股(ふたまた)かけられるとは。  もっと言うなら、俺と水煙(すいえん)と犬と、三股(さんまた)やけどな。 「あぁ、そうなんや。ちょっと(おどろ)いたわ……先生、やるやん。成長したな」  それは成長なんか。俺は苦笑(くしょう)した。  まあ、秋津(あきつ)さん()では、そうなんやろうな。まとめて何人も式神(しきがみ)をいてこます、それが立派(りっぱ)跡取(あとと)り息子のやることなんやもんな。  お前の暁彦(あきひこ)様もそうやったんやろ。せやから、あんなに床上手(とこじょうず)なんや。 「ただな、()ってるんは俺のアキちゃんやない。犬のアキちゃん」 「犬の? なにそれ。犬のお(まわ)りさん的な?」  (ちが)うやん、それ。(こま)ってしまってワンワンワワーンやないか。そうやない。 「アキちゃん、自分を三つに分けたんや。俺用(おれよう)と、水煙(すいえん)(よう)と、犬用(いぬよう)と。別々(べつべつ)に分けて、(くば)ったん。せやし、犬は、犬だけが好きな本間(ほんま)先輩(せんぱい)を、もろうたんや。ぶっちゃけ絵やけど……」  でも、アキちゃんが()いた絵やで。まるで生きてるみたいで、本人にそっくりやねん。  ほんで、ほんまに生きてて、抜け出(ぬけだ)してくる。()じられた絵の位相(いそう)から、こっちの世界へ。  それと()き合うと、どういう感じなんか、俺は知らん。  俺が持ってるんは、ほんまもんのアキちゃんで、別に紙でできてるわけやない。  ただ、神戸(こうべ)での飲み会のとき、大崎(おおさき)(しげる)が絵に()いた酒を術法(じゅつほう)で取り出していた。その時、別に、紙みたいな味がしたわけやないし、霊力(れいりょく)しだいやっていう話やった。  下手(へた)がやったら、(すみ)みたいな味がするかもしれへんけど、強い霊力(れいりょく)があれば、美味(うま)い酒が出て来る。  アキちゃん、霊力(れいりょく)だけは売るほどあんのやし。きっと、あの絵からも、美味(うま)い酒が出てきたにちがいない。  犬が夜な夜な()うような。  そして、たぶんやけど、水煙(すいえん)も……。 「絵から何か出て来るらしいわ。俺は知らんけど。それが、言うんやって。愛してる愛してる、お前だけや。好きで好きで(たま)らへん、て」  その話を、怜司(れいじ)兄さんは眉間(みけん)(しわ)寄せて聞き、しばらく考える目やった。  そして(わろ)うた。急に、なんや火がついたような爆笑(ばくしょう)で、ソファにのけぞって笑い、ひいひい言うてた。  そんな、可笑(おか)しいか。俺、兄さんの笑いツボ、いまいち分からんわ。  なんでそんなに笑うんか、怜司(れいじ)兄さんはすぐ種明(たねあ)かししてくれた。 「これ、見て」  まだ笑いの残滓(ざんし)の残る涙目(なみだめ)で、怜司(れいじ)兄さんはヒップポケットから自分の携帯(けいたい)電話を取り出して操作(そうさ)して、メールの着信画面(ちゃくしんがめん)を俺に見せた。  愛してる、愛してるって、書いてあった。  なにこれ、おとんや。ラブレターや。  うわあ、何やこれ! 見たらあかんもん見せられてる俺! 「毎日来るんや。伝言(でんごん)の紙も飛んでくるしやな、電話ももらうねん」  携帯(けいたい)をしまって、怜司(れいじ)兄さんは複雑(ふくざつ)そうに言うた。 「愛してる、好きや、お前だけやでって、あの人、言うねんけど、何か自動的(じどうてき)やねん。言わされてるみたいにな。別に心がこもってない(わけ)やないんや。ほんまにそう思うてるんやろなあ、って感じはするんやけど……」  飲んでないソーダをぐるぐる()ぜて、怜司(れいじ)兄さんは(めずら)しく猫背(ねこぜ)やった。

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