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30-17 トオル

秋津(あきつ)の家にも、以前は、()くべき役職(やくしょく)はあったんや。しかるべき(やしろ)禰宜(ねぎ)やったりやけど、今はそれももう途絶(とだ)えている。跡取(あとと)りやった俺が(いくさ)で死んでもうたせいや。そやから、家()ぐ言うても、暁彦(あきひこ)がやらなあかん社会的な公の仕事はないんや。もちろん家やら(ゆかり)のある一族(いちぞく)神事(しんじ)はあるんやけども、毎日あるわけやない。それ以外の時を遊んで()らすというんでは、いかにも、ええとこのアホ(ぼん)やろ?」  煙草(たばこ)()いながら、昼間っから(めかけ)のお(ひざ)()でてるお義父(とう)さんも、けっこうそれっぽいですよ?  ていうか、おとん今そうやない? 遊んで()らしてるやん?  ほんで別宅(べったく)に三日と()けずにお(かよ)いなんやろ?  なんの天国やねん、それは。 「退屈(たいくつ)やで」  ぽつりと、しかし、きっぱりと、おとんは言うた。  それに(おぼろ)がぎょっとしていた。 「退屈(たいくつ)なん⁉︎ いま、退屈(たいくつ)て言うたか? 俺とおるのが退屈(たいくつ)やていう意味か?」 「いやいや、そんなん言うてへんやん。暁彦(あきひこ)がな、うちの息子や、お前の主人(しゅじん)やろ。それがただ家の神事(しんじ)と、ときどき人づてに(たの)まれた難儀(なんぎ)をちょいちょい解決(かいけつ)してやる程度(ていど)のことしかしいひんと、あとは遊びで絵()いてやで、ぼうっと家におるだけやと退屈(たいくつ)やでって言うてんのや」 「ほんならお前も退屈(たいくつ)やいうことやないか⁉︎」  (おぼろ)怖気(おぞけ)だったような青い顔で言うてた。  そうやな。そうやろ? そういう話やんな。  俺はさっきから、そう思ってたよ?  おとんなんか、もっと(ひま)やで。  絵も()いてへんのやし、ユミちゃんの散歩(さんぽ)しかしてへんのやん。  そら毎日、散歩(さんぽ)にも行くよ。それしか楽しいことないんやもん。  おとんは最初、(むずか)しい顔で、そうやろうかみたいに考える目をしてた。  それから、少しして、ああ、みたいに納得(なっとく)した顔になり、テーブルの灰皿(はいざら)に、()うてた煙草(たばこ)(はい)を落とした。 「ほんまやな。俺も退屈(たいくつ)やわ」  (おぼろ)精神(せいしん)がまた崩壊(ほうかい)しかけていた。 「俺がおったら何もいらん言うてたやん⁉︎」 「言うたな。(たし)かに。言うた」  言うてもうたなあ、ていう口調(くちょう)になって、煙草(たばこ)の続きを()いながら、おとんはしばらく、どないしようかなって考えてる顔やった。  俺。何か飲むもん注文しようかな。  ソーダ飲んじゃったしな。  めっちゃ(のど)(かわ)く。気まずうて(のど)(かわ)くんや。  怜司(れいじ)兄さん顔()(さお)やで。  どろんて化けて、おとん食うたらどないしよ。  何かそういう、(いや)緊迫(きんぱく)の時が流れた。 「男には、仕事が必要なんや」  ふと思いついたように、おとんが話を()いだ。 「暁彦(あきひこ)も、そうやろ? この(さい)、俺の話は置いとこ。もう死んでるんやしな? 生きてる暁彦(あきひこ)将来(しょうらい)を考えてやらなあかん」  本人いてへんところでな。  そういうの、普通(ふつう)、本人と話せばええやん。おとん。なんで俺や。  前は水煙(すいえん)相談(そうだん)しとったし、今はその()わりが俺や。  水煙(すいえん)に、(とおる)に聞け言われたし、俺に聞いてんのやな。  素直(すなお)やおとん、アキちゃんと(ちご)うて、水煙(すいえん)の言いつけを何でもハイハイて聞く、ええ子なんやな。 「西森(にしもり)さんは、暁彦(あきひこ)画家(がか)になるべきやて言うてた。滅多(めった)にいいひん逸材(いつざい)やって。お兄さんからも、前向(まえむ)きに考えるよう是非(ぜひ)とも説得(せっとく)してくれていう話やった」  お兄さんな。グアテマラの人やな。  西森(にしもり)さんの熱い説得(せっとく)が目に()かぶようや。  あの人の説得(せっとく)毒電波(どくでんぱ)()びて、(いや)やて言える(やつ)滅多(めった)におらんで。  俺もそれで、ホテルの悪いおっちゃんに()われる羽目(はめ)になってたのやしな。 「よろしゅうお(たの)(もう)しますて言うといた」  おとん言うてた。やっぱり(どく)されてる。 「そしたらな、西森(にしもり)さんの店の近所(きんじょ)に、アトリエ(けん)事務所(じむしょ)にちょうどええ物件(ぶっけん)が、つい最近()いたんやって。そこ()さえますて言わはったしな……」  何か飲むもんないのんて、おとんも怜司(れいじ)兄さんのソーダ水のグラスを(のぞ)()んだが、ソーダ水みたいな(あま)いもんが飲みたい(わけ)やなかったらしい。 「よろしゅうお(たの)(もう)しますて言うといたわ」  お水飲もうって、おとんは思うたようで、怜司(れいじ)兄さんのお水飲んでた。  ごくごく飲んでるおとん大明神(だいみょうじん)を、怜司(れいじ)兄さんはまだ椅子(いす)(くず)れ落ちたまま、(あき)れた顔で見上げてた。 「よろしゅうお(たの)(もう)しますって言うたん?」  眉間(みけん)(しわ)()せた(なや)む顔で、怜司(れいじ)兄さんが言うた。 「そうや」  おとん、水のコップ持ったまま、一点の悪気(わるぎ)もない顔で(おぼろ)を見ている。 「そんなん言うてええん? 本間(ほんま)先生、知ってんのか、それ」 「本間(ほんま)先生(ちが)うで、もう秋津(あきつ)先生やで。まだ知らんさかいに、言うといてもらお思て、今、話したんやんか。ここで白蛇(しろへび)ちゃんにたまたま()うたんも、何かのお(みちび)きや」  ありがたいなあ。ていう口調(くちょう)やった。  さすがは世が世なら、しかるべき(やしろ)禰宜(ねぎ)やった人や。信心深(しんじんぶか)い。

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