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30-26 トオル

 俺がまだ未決(みけつ)のことを、遠慮(えんりょ)なく教えてやると、(その)先生は、ああそうかと深い溜息(ためいき)をついた。  ほっとしたというには、(せつ)なそうな(いき)やった。 「さすがやなあ。本間(ほんま)君。(うらや)ましいわ」 「先生も気張(きば)りや」 「そうやなあ。これでもう、本間(ほんま)君とは師弟(してい)というより、ライバルや。あんまり()()(かん)じへんけども、教え子の手前(てまえ)、そうそう(なさ)けないことにもなられへんよなあ」 「絵()いて、先生。アキちゃんが、びっくりするようなやつ。先生すげえなあって、(うれ)しくなるような絵をな、()いて」  俺はもう、(その)先生に会えるかどうか、分からへんようになって、最後に言い残すことがないように、おっちゃんに真面目(まじめ)に言うた。  そしたら(その)先生、うんうんて、(うなず)いてた。 「八ツ橋(やつはし)買ってきたし、食べて。賄賂(わいろ)のつもりやったけど、もう()らんようなったみたいやし」 「俺、八ツ橋(やつはし)のために土下座(どげざ)したんやなあ」 「やっすい土下座(どげざ)やのう」  俺が()めると、おっちゃん(わろ)うてたわ。  (その)先生。ありがとう。うちのツレを一人前(いちにんまえ)絵師(えし)にしてくれて。先生のお(かげ)で、アキちゃん新しい世界へ()ばたいていけるみたいやわ。  飛び立つ時が、もう目の前に(せま)ってる。  俺は(ねむ)るアキちゃんの(かみ)()でて、朝までそこに一緒(いっしょ)()った。  暗かった(まど)が、だんだん、白々(しらじら)と明るうなってきて、美しい(あかつき)の光が(まど)から少しずつ、部屋(へや)()()んできた。  (あかつき)か。これがアキちゃんの名前やな。  (あかつき)の子やし、暁彦(あきひこ)なんや。  おはよう、アキちゃん。新しい世界やで。  早朝(そうちょう)目覚(めざ)めたアキちゃんに、俺はおはようて言うた。  アキちゃん、びっくりしてた。俺が来るとは思うてへんかったんか。 「なんで()るんや、(とおる)」  俺まだ夢見てんのかなって、そう思うてる顔をして、アキちゃんは自分の()いた絵を振り返(ふりかえ)ってた。  俺は絵やない。大丈夫(だいじょうぶ)や。ほんまもんの(とおる)やで。  なんか久しぶりやな、アキちゃん。最後の方、お前あんまり家帰って来られへんかったもんなあ。  (とおる)ちゃん、アキちゃんの霊水飴(れいすいあめ)で食いつないだわ。  というのはまあ、冗談(じょうだん)で。なんでか俺、あんまり(はら)減らんかってん。  アキちゃんが俺を、愛してくれてるような気がして、いつも()たされていた。  たぶん、この絵のせいやないかな。アキちゃんずっと、俺を(おも)うて、この絵を()いてくれてたんやろ。  その(おも)いが、どうにかして、俺まで(とど)いてたんやない? 「おめでとう。卒業(そつぎょう)やって。(その)先生が、教えに来てくれてたで」 「ああ……そうなんか」  そんなん、どうでも良くなってたわっていう声で、アキちゃんはぼけっと言うた。  俺はそれが、あまりにも浮世(うきよ)(ばな)れしていて、可笑(おか)しいなって、ちょっと(わら)けた。 「お前、とんでもないエロ絵を()いてたんやな。これは内緒(ないしょ)にするわけやわ」  俺がいじると、アキちゃんは(こま)ったような、()れた顔になった。 「あかんかな……。でも他に()きたい絵が()うて」 「それでエロ絵を()いたんやな」 「エロい? これ……」  どないしようって、やってもうたみたいな目で、アキちゃんはまた絵のほうを、二度見(にどみ)した。 「いや……美しい絵やわ。自分で言うのも変やけど」 「そやな、自分で言うのも変やけど。俺も、そう思うわ」  ()ずかしそうに自画自賛(じがじさん)して、アキちゃんは俺を見つめた。 「なんか久しぶりに会えたな」  (うれ)しそうなアキちゃんの、ちょっとはにかんだ笑顔に、俺は(まぶ)しいなと思い、目を(ほそ)めた。 「キスしてもええか?」 「ええで」  アキちゃんはそう強請(ねだ)り、俺は(ゆる)した。  アキちゃんは椅子(いす)(すわ)ったままの俺を()き寄せて、(やさ)しく軽い、()れるだけのキスをした。  それを二度、三度してから、俺を()()せ、深いキスと抱擁(ほうよう)を。  ちょうど(ゆか)にある、絵の男のように、アキちゃんは(せつ)なくて(つら)い、俺があんまり好きで、苦しいという顔をした。  (むね)が、()()けそうなんやんな。  俺もそうや。心臓(しんぞう)が、愛で(やぶ)れそう。 「結婚(けっこん)しよか、(とおる)」 「え、もうしたやん?」  自分らの指にある結婚(けっこん)指輪(ゆびわ)を見て、俺はその思い出が、ちゃんとこの時空(じくう)出来事(できごと)だったんかと、(なや)んだ。  そのはずやで。ヴィラ北野(きたの)でしたで。  神楽(かぐら)司祭(しさい)やって、俺ら永遠(えいえん)の愛を(ちこ)うたやん。  (わす)れたん、アキちゃん。ひどいやないか。 「したけど、もう無効(むこう)やって、言われたやんか。海の底で、人魚(にんぎょ)に」  ああ、そういえば、そうやった。記憶(きおく)をプレイバックしてみよう。  人魚(にんぎょ)の姉ちゃんはこう言うていた。  その契約(けいやく)無効(むこう)よ。この者の死によって、分かたれた。そっちだって死んでるじゃない、って、俺を見た。  あの時の絶望感(ぜつぼうかん)、俺は今でも記憶(きおく)鮮明(せんめい)やわ。  そうやった。俺ら分かたれてもうてんのやった。死によって。 「せやからな、もう一回しよ。今度は、死んでも(はな)れへんように、よう考えて(ちか)おう」

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