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30-29 トオル
まあ、あれやん。後朝 やなって。
こんなええもんやったとは、って、朝なって目が覚 めた水煙 は、絵から這 い出 してきて、ぬけぬけと言うた。
お前のカレーのせいやなあって。
よう言う。自分のせいやろう。
今まで絵のアキちゃんの誘惑 を水煙 は拒 み続けてたらしい。そんな破廉恥 なことはせえへん。恥 ずかしいから俺はいらんって。
これは別にアキちゃんの分身 やない、式神 の影法師 やっていうんは、水煙 には分かってた。
それと宜 しくやるような辱 めは受けとうないわって、意地 はってたんやって。さすがやな。
そうやけど、カレー食うたせいで燃 えて、燃 えて、我慢 ならんかったんやって。
それは言い訳 やろう。何かされたんやろう。青いままでもキスくらいはできるんや。
今まで拒 めてたもんが、拒 まれへん。ああもう無理 やってなってもうて、絵の中に連 れ込 まれちゃったんや。
アキちゃん、どんなんやったんや。知らんけど。
水煙 の口ぶりからして、相当 、悦 かったみたいや。
ああいう夜を幾夜 も超 えて、正気 でいられるお前が化 けもんやと思うって、水煙 は言うてた。
うん。俺、化 けもんやけどな。
まあええわ。絵の中でやってくれ、水煙 。そうしたら俺には声も聞こえへんし、姿 も見えへん。
お前の人間みたいな姿 も、元 はといえばアキちゃんの絵や。
絵は絵どうしで、よろしくやってくれ。
その後遺症 か、今も水煙 のアキちゃんを見る目が熱い。
カレーのせいかな。恐 ろしいな、カレー。もう食わさんほうがええわ。
水煙 も、そうしたいて言うてた。
辛抱 たまらんぐらい我 が身 が燃えるのは、もうこれが最後でええわって。
でもそれが最後とは、俺には思えん。
いっぺん穢 れたら、それが病 みつきになるもんや。
月の出とともに絵の中の男は、現われ出 るもんらしい。
そして実体 のある時間は、満月 の夜に最長 になる。アキちゃんの通力 が月読 由来 やからや。
次の満月 の夜にも、水煙 が拒 み通 せるかは、それは分からへん。
その時またカレー煮 てやってもええけどな。亨 ちゃんの特製、満月 カレーやで。
俺のカレーが食えへんとは言わせへん。カレーハラスメントやで、水煙 。
だって、言 い訳 も必要やろ。お前かて本音 では、アキちゃんと抱 き合 うて、仲良 うしたいはずや。
ここに来て、俺とアキちゃんが夜通 し愛し合うんを、指咥 えて見てる、聞いてるだけっていうんでは、生殺 しや。
お互 いそれをずっと続ける訳 にも行かへん。
お前はお前で、よろしゅうやったらええんやで。俺とは別の、絵の中の位相 でな。
俺って寛大 やろ。
アキちゃんのおとんにも寛大 な神やって言われてるしな。その通 りやわ。
あの朝に見た、嬉 しすぎて泣いたような、後朝 の水煙 の姿 を見たら、これは俺が水煙 から奪 った、また別の運命 やったんやなと思うた。
アキちゃんが俺とは出会わず、水煙 と添 い遂 げていたら、それは今夜にでも、毎晩 にでも、起きてたことやったんかもしれへん。
水煙 はアキちゃんが好きやし、アキちゃんかて水煙 が好きなんや。せやしこの絵を描 いた。
その中の甘 く蕩 けそうな現実が、ほんまもんの世界での現実やったかもしれへんのや。
それを夢に見るくらいのこと、俺は水煙 に許 してやらなあかん。
俺には、ほんまもんのアキちゃんがおるんや。今は絵描 いてて留守 やけど、俺だけを愛してくれるほんまもんのアキちゃんはちゃんと別におる。
絵の中の男が水煙 に愛を囁 いても、聞こえんふりをして、妬 いたりせえへんのが、そうやな……水煙 ふうに言うと、分別(ふんべつ)やなって思うたんや。そうやないか?
まあ、俺もこの境地 に達 するまでには、長い長い紆余曲折 があったよ。しんどかったな。
まだ驚 いた顔のまま、水煙 を見て、俺を見てるアキちゃんの、ついて来られてへん顔が、愉快 やった。
水煙 が苦笑 してそれを見上げ、俺も笑 うてた。
その時の俺らの心に、曇 りはなかった。少なくとも俺と水煙 にはな。
アキちゃんは知らん、悪い色男 の坊 やねんから、多少は苦しむがええよ。そうやろ?
長いような、短かったような、蛇 と包丁 のデスマッチも、これにて一件落着 とさせてもらうわ。
皆 も心配してくれて、ありがとうやで。
なに? もっと見たかったって?
いやいや、もう堪忍 してくれやで!
堪忍 堪忍 。俺はもうお腹いっぱい、ご馳走 さまやわ。これにて終 いでございます。
さてさて最後に、俺らにはまだ一つ、解決 せなあかん大きい問題が一個だけ残っていた。
信太 や。
あいつは寛太 の必死の捜索 によって、冥界 の炉 の中で消えゆく運命 から、魂 を救 われた。
そのまま逝 ってれば、あいつの魂 は冥界 の炉 で煮 溶 かされ、どろどろの熱い生命 の源 となり、他のそういう幾多 の者の魂 とともに、新しい別の魂 の鋳型 に入れて固められて、いずれはまた現世 に出荷 されてきたやろう。
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