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30-32 トオル

 それはいい。とにかく、MAX(マックス)九十と百を(くら)べながら生活されると、信太(しんた)には地獄(じごく)やわ。  パフォーマンス以前の問題で、(おぼろ)暁彦(あきひこ)様にベタ()れや。  それとの(ちが)いを見せつけられてもうたら、(とら)の精神が(あや)うい。可哀想(かわいそう)やろ。  おとんも天然(てんねん)やし遠慮(えんりょ)せえへんからな。(だれ)かが見てても、それがアキちゃんでも、気にしてへんかったんやしな。  お義父(とう)さんにとっては、(だれ)か見てる中でやるんは普通(ふつう)なんですよ。ずっと多頭飼(たとうが)いやったんやもん。  そんな地獄(じごく)から、蔦子(つたこ)さんは(とら)(すく)い、寛太(かんた)だけを見て成長するコースを選ばせた。  信太(しんた)選択(せんたく)余地(よち)はない。そのことを寛太(かんた)は気にしてる。  兄貴(あにき)は俺のこと(おぼ)えてた。でも(おぼろ)(わす)れた。それだけでもう、寛太(かんた)の完全勝利や。俺はそう思っとけと思うけど、寛太(かんた)は不安や。  信太(しんた)がもしラジオのことを思い出し、やっぱりあっちが好きやったと言うたら、どないしようって。  絶対にもう、信太(しんた)(おぼろ)には会わせとうない。思い出したら(こわ)いって、ずうっと(かく)して、会わせんようにしてたんや、寛太(かんた)は。  そうやけど、問題が発生していた。  信太(しんた)がな、一向(いっこう)記憶(きおく)取り戻(とりもど)さへんのや。何か重要なパーツが欠けていたんか。  日本にやってくる直前の、文革(ぶんかく)のころの記憶(きおく)を、こともあろうに寛太(かんた)()ててきた。  兄貴(あにき)にとってはトラウマや。ずっと心の(きず)やったんやしな。  それに鯰(なまず)も(いや)や。あんな(おそ)ろしいもんのことは、もう(わす)れて、心(おだ)やかでいてもらいたい。  そうやけど、俺と出会(でお)うた神戸の地震(じしん)の後からこっち、二度目の地震(じしん)が来る直前(ちょくぜん)までの時は、(うしな)うわけにはいかへん。  そやけど(おぼろ)微妙(びみょう)や。(わす)れといてくれたほうが……。  寛太(かんた)は、ちょっと、手を出し過ぎたんかもな。  近々(きんきん)の時期に集中して、信太(しんた)にとって大きかった記憶(きおく)や思い出を、ガンガン()てた。  何かは()てなあかんのや。四(わり)()てなあかんのやしな、断捨離(だんしゃり)(まよ)いは禁物(きんもつ)やねん。  そうやけど、一時期の自分の(たましい)が、ぐちゃぐちゃになったせいか、信太(しんた)は日本に()り立って以降(いこう)記憶(きおく)をろくろく取り戻(とりもど)さへんかった。  言葉(ことば)も分からへん。しょうがないから、もういっぺん、日本語を教えた。  思い出すよりも先に、信太(しんた)はまた新たな思い出の中を、現在進行形(げんざいしんこうけい)で進んでる。それは厳密(げんみつ)には別人(べつじん)や。別の(とら)。  信太(しんた)はやっぱり野球は好きで、甲子園(こうしえん)球場(きゅうじょう)に連れて行くと喜んだ。  あいつの霊威(れいい)と、阪神(はんしん)タイガースはやっぱり馴染(なじ)みがええらしい。  阪神(はんしん)優勝(ゆうしょう)して、甲子園(こうしえん)はまた、(とら)(あが)める(とら)キチさん達の熱狂(ねっきょう)坩堝(るつぼ)になった。  それは信太(しんた)にとっても()(かぜ)や。日、一日と肉体の方は急激(きゅうげき)に成長して、信太(しんた)は見かけ(じょう)(もと)どおりになった。  そやけど竜太郎(りゅうたろう)のことは(おぼ)えていない。  あいつが生まれて、赤ん坊(あかんぼう)(ころ)一緒(いっしょ)に遊んでやったことも。学校行きたくないと号泣(ごうきゅう)するのを、毎日送ってやってたことも。全部(わす)れてて、竜太郎(りゅうたろう)のことを、竜太郎(りゅうたろう)(ぼっ)ちゃんと()ぶ。  他人行儀(たにんぎょうぎ)で、()りてきた(とら)みたいや。  啓太(けいた)なんか、不快(ふかい)や言うて、信太(しんた)と口を()かんらしい。  こいつは知らん(とら)やと、信太(しんた)(もと)の仲間とは(みと)めてへん。  今や信太(しんた)の持ち主は、アキちゃんなんやし、(もと)信太(しんた)でないんやったら、新品のままで京都に納品(のうひん)したらええんやというのが、啓太(けいた)の意見やそうや。  まあ、そうすりゃ鳥はフリーになるし、あいつにもチャンスができるよな。  寛太(かんた)に気があるんやもんな、あの雪男(ゆきおとこ)。  さて。どうするか。  このままいくか、(あきら)めて、新しい(とら)のまま、新しい一生を生きさせるか。  それとも、思い切ってのショック療法(りょうほう)(おぼろ)に会わせてみるかや。  (おぼろ)記憶(きおく)信太(しんた)にとって、重要なパーツであることは、間違(まちが)いなさそうやったからやな。  寛太(かんた)は、それについて、めっちゃ(なや)んだらしい。  信太(しんた)が鳥さんへの愛も(わす)れたかと言えば、実はそれは大丈夫(だいじょうぶ)やった。  今や寛太(かんた)はむしろ信太(しんた)兄貴(あにき)や。  始め、まだちびっこい(とら)やった(ころ)には、寛太(かんた)寛太(かんた)(なつ)き、やがて一人前の体を取り戻(とりもど)してからは、毎晩(まいばん)、鳥を食う。  中国四千年の味や。(ちが)うわ、五百年前後の味。  それが、気持ちよすぎて泣く。それでもうええかって、(あきら)めれば(しま)いやねん。  ええんちゃう、それで。もう、しょうがないって事でも、ええんとちゃう?  俺はそう思うけど。(こわ)いもん見たさか。寛太(かんた)。  自分が選ばれたんや。(おぼろ)やのうて、兄貴(あにき)は俺が、好きなんやって、思いたいのやって。  ああ。ため息出るわ。そうやとええけどなあ、寛太(かんた)。  それは分からへんで、正直。  怜司(れいじ)兄さんは強敵やで。  しかも今や、どこを切ってもおとんへの愛しか出てこないような、おとん廃人(はいじん)なんや。会わせんほうが無難(ぶなん)やで。  ましてや兄さん、まだちょっと信太(しんた)未練(みれん)があるで。  本人は(みと)めんやろうけど、(とおる)ちゃんの目はごまかせへんで。  信太(しんた)の名を聞くと、(おぼろ)胸騒(むなさわ)ぎがしてる。  ()うたが最後、頭からバリバリ、(とら)も食うとこかって思われたら、どないするんや?

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