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30-36 トオル

 泣いてる寛太(かんた)(となり)にまた(すわ)らせ、頭をよしよししてやって、ついでに(おぼろ)はぐちゃぐちゃやった寛太(かんた)赤毛(あかげ)(かる)手櫛(てぐし)でセットし直した。(ゆる)せへんかったんやな。 「俺はな、寛太(かんた)、むしろお前のそういう(きたな)いとこ見られて、(うれ)しいわ。成長したんやなあ。お前は、いつもぽかーんとしてて、こいつほんまに生きてんのかなって感じやったやろ? 生きてりゃ(きたな)くもなるわ。俺なんか(はら)ん中、真っ黒やで。生きてる証拠(しょうこ)やって……」  めちゃめちゃ泣いてる寛太(かんた)を、(おぼろ)(こま)り顔で(はげ)まし、ぎゅうっと()きしめてやっていた。  寛太(かんた)はそれを(たよ)り、赤ん坊(あかんぼう)みたいに泣いている。  寛太(かんた)にとっては(おぼろ)は、泣いて(あま)えてもええ相手らしいわ。  何か分からん。複雑(ふくざつ)な三角形やなあ。  そういう相手(あいて)裏切(うらぎ)ってもうたって、寛太(かんた)(きず)ついてるようやった。  自分の、その、怜司(れいじ)兄さんの言うところの、腹黒(はらぐろ)さみたいなのに。  こいつも(なや)んだんやろう。ツレの一生にとって、何が大事か。それが、湊川(みなとがわ)怜司(れいじ)との美しい思い出では(いや)やったんや。  たとえ、育ててもろうた(おん)(そむ)いても、消してしまいたい記憶(きおく)が、いっぱいあったってことやろか。  それに嫉妬(しっと)する自分の身の(けが)れに、寛太(かんた)はもう、子供(こども)のような、ぼけっとした、不死鳥(ふしちょう)(ひな)のままではいられへん。  その成長痛(せいちょうつう)に、寛太(かんた)は泣いてた。  心が(いた)いんやなあ、鳥さん。  分かるけど、裏切(うらぎ)った相手(あいて)本人に泣きつくのは変やで。  まあ、ええねんけどさ。怜司(れいじ)兄さんやしさ。かまへん言うてんのやしな。(あま)えとくか。 「なあ、信太(しんた)。ほんまになんも思い出せへんのか? こいつのこと好きか?」  怜司(れいじ)兄さんは無造作(むぞうさ)信太(しんた)に話を()り、しくしく泣いてる鳥さんを、自分の(むね)()()せて、泣かせてやっていた。  (おぼろ)を見る信太(しんた)はまだ、こいつ(だれ)なんやという、戸惑(とまど)う顔やった。強張(こわば)った声で答える信太(しんた)を、(おぼろ)はじっと見ていた。 「寛太(かんた)……好きやで」 「ほんならええやん? 何か問題あるん?」  何も無いやろって、そういう軽快(けいかい)調子(ちょうし)で言うて、怜司(れいじ)兄さんは、ああこれで一件落着(いっけんらくちゃく)やみたいな空気になった。 「今日からまた新しく始めたらええだけの話やんか。(みんな)ともここで初めて()うたんや。自己紹介(じこしょうかい)しよか?」  ハンカチ出して、寛太(かんた)(なみだ)()いてやりながら、怜司(れいじ)兄さんは笑って言うた。  ハンカチなんか持ってるで、この人。  しかも赤で蜻蛉(とんぼ)の刺繍(ししゅう)が入ってる。  おとん廃人(はいじん)や。おとん廃人(はいじん)。  おとんのハンカチなんやで、きっと。  兄さんは好きな男の持ち物を強請(ねだ)(くせ)があんのや。  その小さい蜻蛉(とんぼ)刺繍(ししゅう)を、(とら)の黄色い(するど)い目が、さっと一瞥(いちべつ)したようやった。 「俺は湊川(みなとがわ)怜司(れいじ)やで。ラジオのお兄さんや。蔦子(つたこ)さんの(しき)やったけど、最近、こっちの本間(ほんま)先生のほうに(うつ)ったんや。本間(ほんま)先生ちゃうか、秋津(あきつ)先生? ()()れへんわあ、気色悪(きしょくわる)」  ほんまに(いや)そうに言うて、(おぼろ)はアキちゃんを見た。  ()れへんのはアキちゃんかてそうや。  本間(ほんま)先生でええけどな、と、アキちゃんは(おぼろ)苦笑(くしょう)していた。 「ビール飲みたい。バドワイザーがいい。先生、注文(ちゅうもん)してくれ」  のっけからワガママ言うてる湊川(みなとがわ)怜司(れいじ)に、水煙(すいえん)が、主人(しゅじん)を使う式神(しきがみ)がおるかと(おこ)り、アキちゃんはまた苦笑(くしょう)した。  ビールやったら、俺がもう(たの)んどいたよ。  やっと来たよ、ちょうど来た。ありがとう、店の人。  人数分持ってきてもらったグラスに、お(つか)れさまーとビールを()いで、怜司(れいじ)兄さんは酒が飲めればご機嫌(きげん)や。  飲もうとした瑞季(みずき)のグラスを横から(うば)い、お前まだ未成年(みせいねん)やろと、怜司(れいじ)兄さんは(こわ)い顔を作って言うた。  そして、飲むもん()られてびっくりしている瑞季(みずき)のビールをごくごく飲んだ。  その白い(のど)が、いかにも美味(うま)そうに酒飲んでるのを、(とら)が見ていた。  信太(しんた)のその目が、一瞬(いっしゅん)()けたバターみたいに熱く光った気がして、俺はそれを見つめた。 「やっぱりバドがいいなあ……」  一気飲(いっきの)みしといて、まだ飲むんかっていうことを、空っぽのグラスをテーブルに(もど)しながら、怜司(れいじ)兄さんは言うた。  バドワイザーのキャッチコピーかよ。(なつ)かしいわ。 「日本のビールか、青島(チンタオ)しかないんですよ」  しゃあないなあって、メニュー見てやって瑞季(みずき)が教えた。 「ほんなら青島(チンタオ)でいい。ワンワン注文(ちゅうもん)してきて」  こっちも、しゃあないなあって顔を瑞季(みずき)に向けて、怜司(れいじ)兄さんは犬も使う気やった。ほんま奔放(ほんぽう)な人やわ。 「買ってこようか」  (きゅう)信太(しんた)(しゃべ)った。  アキちゃんがそれに、びっくりしていた。  信太(しんた)(おぼろ)になんか言うとは、思わへんかったというか、いつか何か言うんかなって、ビクビクしてたというか。  怜司(れいじ)兄さんは、白いテーブルクロスのかかる丸テーブルに頬杖(ほおづえ)をつき、じっと信太(しんた)を見つめた。  (めずら)しく無表情(むひょうじょう)で、ものすごく(するど)い目やった。

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