899 / 928
30-37 トオル
「なんで? パシってくれんの? 親切 やな。でもここ四条木屋町 やで。お前、土地勘 ないやろ」
「そうやけど、好きなんやろ……?」
何かを思い出すような顔を信太 はしてた。
記憶 の糸をたぐり、どこか遠くを見てる。
そやけどその糸の先にあったもんは、もう消えていた。冥界 の炉 の中に、捨 ててきた後 や。
朧 は苦笑 して、身体 のどこかを探 り、何か銀色に光るもんを、テーブル越 しに向かいの信太 に投げた。
何やろうって、いくつもの目がそれを見た。
知恵 の輪 やわ。これ。たぶん。
絡 み合う銀の輪がいくつも付いた、簾 のようなものを、朧 は信太 に放 ってよこしていた。
「これ知ってる?」
「九連環 やな」
知っているような気がする。そういう、霧 の向こうを透 かし見る顔で、信太 はぼんやり答えた。
それは中国に古代からあるパズルやねんて。
複雑 に絡 み合った金属 の輪 と軸 でできていて、ぱっと見では、どう解 くのか、見当 もつかへん。
「外 してみ」
自分の分のグラスから、二杯 目のビールを飲んで、朧 は信太 を横目 に見た。
信太 はしばらくその金属 の連 なりをじっと見ていたが、やがて、手を動かして、輪 を解 きはじめた。
何かを編 むような、複雑 な輪 の動きを、テーブルの各所 から皆 で見守り、手品 のように分解 されていく九連環 に、皆 が見とれた。
不思議 や。そして、器用 やな、信太 は。
それでも、その輪 の束 を外 すのには、けっこうな時間と手間 がかかった。
金属 の触 れ合 う小さな音がしばらく響 き、最後にじゃらっと外 れた輪 を全部、信太 は朧 に放 って返 した。
「外 せるやん。まだ憶 えてたんやなあ。これ、南京町 いって買 うてきたんや」
にっこりとして、朧 は信太 を褒 めた。そしてビールを舐 めている。
「日本に来てすぐの頃 、お前がしょうもない事ばっかりぐるぐる悩 むさかい、何も考えんと、これでもやっとけと思うて、こういうの山盛 り買 うてきてやったんやん。これ解 けた時、お前が笑うの初めて見たで。懐 かしいなあ。何か思い出せそうか?」
「別に。何も……」
信太 は、つらそうに言うて、険 しい顔やった。
「何も思い出さへん」
「そうなん。それは、残念やけど、しょうがないな。役に立つかと思て、南京町 行ってきたんやけど、あかんかったか……」
外 れた輪 を見て、怜司 兄さんは少し、がっかりしたようやった。
信太 が何か、思い出しそうに見えたんやろう。
「まあ、しょうがないか」
ビールの続きを飲みながら、怜司 兄さんは独 り言 のように、もう一度言うた。
その横顔 を、信太 はしばし見ていたが、急にアキちゃんに向きなおって、言うた。
「先生、蔦子 さんに電話してもいいですか」
「え。いいけど……」
「明日 の朝イチで、蔦子 さんに俺を引き取りに来てもらってもええやろか。俺には京都は合わへん。甲子園 の家がええわ。聖地 もあるし、寛太 もおるしな、俺は蔦子 さんの式 に戻 りたいです」
きっぱり言う信太 に、アキちゃんはぽかんとしていた。
お、おう、そうせえ、と、アキちゃんはちょっと面食 らったように言い、信太 に通話 を許 した。
信太 はその場でコールし、電話はしばらく繋 がらなかった。
やがて、誰 かが電話に出る音がした。
「信太 か? どないしたん。お母ちゃんいまお風呂 やで」
まだ声変わりしてない餓鬼 の声や。おかんの電話に勝手 に出てる。
「竜太郎 。風呂 あがったらすぐ話したいて信太 が言うとうって、蔦子 さんに言うてくれ」
信太 が断固 とした口調 で電話に言うと、向こう側の竜太郎 の声が、オッケー、ちょっと待っててな、と歩いて行く気配 がした。
そして、がらっと戸をあける音がして、きゃあ、っていう、蔦子 さんの、娘 っ子みたいな声がして、竜太郎 が怒 られていた。
「ごめんごめん、信太 から電話やで。何か急ぎの用事 のようやで」
「そんなん、戸の向こう側 でお言いやす。電話こっちに貸 しなはれ」
照 れて怒 ってる声がして、電話は蔦子 さんに繋 がった。
「裸 で電話せんでも……」
開口一番 に信太 が言うと、蔦子 さんはまだ怒 った声やった。
「あんたが電話してきたんですやろ! 何の用 どす、信太 。あんたはもう本家 に遣 ったんえ、もう、うちのもんやない。気安 く電話して来んといとくれやす」
「そこをなんとか」
丸テーブルに頬杖 を付き、信太 は押し返 した。
「俺には蔦子 さんしかいてへん。頼 みます。帰りたいねん、神戸に。そやから明日、朝一番で迎 えに来てほしいんや。寛太 は今夜、帰らせますし。明日の朝いちばんやで、姐 さん。本間 先生も、信太 いらんし帰れていうとうわ。このままやと俺は野良虎 になってしまうんやで」
何言うてますのん、と蔦子 さんはつれない。
それに笑いながら、信太 は答えた。
ともだちにシェアしよう!