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30-37 トオル

「なんで? パシってくれんの? 親切(しんせつ)やな。でもここ四条木屋町(しじょうきやまち)やで。お前、土地勘(とちかん)ないやろ」 「そうやけど、好きなんやろ……?」  何かを思い出すような顔を信太(しんた)はしてた。  記憶(きおく)の糸をたぐり、どこか遠くを見てる。  そやけどその糸の先にあったもんは、もう消えていた。冥界(めいかい)()の中に、()ててきた(あと)や。  (おぼろ)苦笑(くしょう)して、身体(からだ)のどこかを(さぐ)り、何か銀色に光るもんを、テーブル()しに向かいの信太(しんた)に投げた。  何やろうって、いくつもの目がそれを見た。  知恵(ちえ)()やわ。これ。たぶん。  (から)み合う銀の輪がいくつも付いた、(すだれ)のようなものを、(おぼろ)信太(しんた)(ほう)ってよこしていた。 「これ知ってる?」 「九連環(きゅうれんかん)やな」  知っているような気がする。そういう、(きり)の向こうを()かし見る顔で、信太(しんた)はぼんやり答えた。  それは中国に古代からあるパズルやねんて。  複雑(ふくざつ)(から)み合った金属(きんぞく)()(じく)でできていて、ぱっと見では、どう()くのか、見当(けんとう)もつかへん。 「(はず)してみ」  自分の分のグラスから、二(はい)目のビールを飲んで、(おぼろ)信太(しんた)横目(よこめ)に見た。  信太(しんた)はしばらくその金属(きんぞく)(つら)なりをじっと見ていたが、やがて、手を動かして、()()きはじめた。  何かを()むような、複雑(ふくざつ)()の動きを、テーブルの各所(かくしょ)から(みな)で見守り、手品(てじな)のように分解(ぶんかい)されていく九連環(きゅうれんかん)に、(みな)が見とれた。  不思議(ふしぎ)や。そして、器用(きよう)やな、信太(しんた)は。  それでも、その()(たば)(はず)すのには、けっこうな時間と手間(てま)がかかった。  金属(きんぞく)()()う小さな音がしばらく(ひび)き、最後にじゃらっと(はず)れた()を全部、信太(しんた)(おぼろ)(ほう)って(かえ)した。 「(はず)せるやん。まだ(おぼ)えてたんやなあ。これ、南京町(なんきんまち)いって()うてきたんや」  にっこりとして、(おぼろ)信太(しんた)()めた。そしてビールを()めている。 「日本に来てすぐの(ころ)、お前がしょうもない事ばっかりぐるぐる(なや)むさかい、何も考えんと、これでもやっとけと思うて、こういうの山盛(やまも)()うてきてやったんやん。これ()けた時、お前が笑うの初めて見たで。(なつ)かしいなあ。何か思い出せそうか?」 「別に。何も……」  信太(しんた)は、つらそうに言うて、(けわ)しい顔やった。 「何も思い出さへん」 「そうなん。それは、残念やけど、しょうがないな。役に立つかと思て、南京町(なんきんまち)行ってきたんやけど、あかんかったか……」  (はず)れた()を見て、怜司(れいじ)兄さんは少し、がっかりしたようやった。  信太(しんた)が何か、思い出しそうに見えたんやろう。 「まあ、しょうがないか」  ビールの続きを飲みながら、怜司(れいじ)兄さんは(ひと)(ごと)のように、もう一度言うた。  その横顔(よこがお)を、信太(しんた)はしばし見ていたが、急にアキちゃんに向きなおって、言うた。 「先生、蔦子(つたこ)さんに電話してもいいですか」 「え。いいけど……」 「明日(あす)の朝イチで、蔦子(つたこ)さんに俺を引き取りに来てもらってもええやろか。俺には京都は合わへん。甲子園(こうしえん)の家がええわ。聖地(せいち)もあるし、寛太(かんた)もおるしな、俺は蔦子(つたこ)さんの(しき)(もど)りたいです」  きっぱり言う信太(しんた)に、アキちゃんはぽかんとしていた。  お、おう、そうせえ、と、アキちゃんはちょっと面食(めんく)らったように言い、信太(しんた)通話(つうわ)(ゆる)した。  信太(しんた)はその場でコールし、電話はしばらく(つな)がらなかった。  やがて、(だれ)かが電話に出る音がした。 「信太(しんた)か? どないしたん。お母ちゃんいまお風呂(ふろ)やで」  まだ声変わりしてない餓鬼(がき)の声や。おかんの電話に勝手(かって)に出てる。 「竜太郎(りゅうたろう)風呂(ふろ)あがったらすぐ話したいて信太(しんた)が言うとうって、蔦子(つたこ)さんに言うてくれ」  信太(しんた)断固(だんこ)とした口調(くちょう)で電話に言うと、向こう側の竜太郎(りゅうたろう)の声が、オッケー、ちょっと待っててな、と歩いて行く気配(けはい)がした。  そして、がらっと戸をあける音がして、きゃあ、っていう、蔦子(つたこ)さんの、(むすめ)っ子みたいな声がして、竜太郎(りゅうたろう)(おこ)られていた。 「ごめんごめん、信太(しんた)から電話やで。何か急ぎの用事(ようじ)のようやで」 「そんなん、戸の向こう(がわ)でお言いやす。電話こっちに()しなはれ」  ()れて(おこ)ってる声がして、電話は蔦子(つたこ)さんに(つな)がった。 「(はだか)で電話せんでも……」  開口一番(かいこういちばん)信太(しんた)が言うと、蔦子(つたこ)さんはまだ(おこ)った声やった。 「あんたが電話してきたんですやろ! 何の(よう)どす、信太(しんた)。あんたはもう本家(ほんけ)()ったんえ、もう、うちのもんやない。気安(きやす)く電話して来んといとくれやす」 「そこをなんとか」  丸テーブルに頬杖(ほおづえ)を付き、信太(しんた)押し返(おしかえ)した。 「俺には蔦子(つたこ)さんしかいてへん。(たの)みます。帰りたいねん、神戸に。そやから明日、朝一番で(むか)えに来てほしいんや。寛太(かんた)は今夜、帰らせますし。明日の朝いちばんやで、(ねえ)さん。本間(ほんま)先生も、信太(しんた)いらんし帰れていうとうわ。このままやと俺は野良虎(のらとら)になってしまうんやで」  何言うてますのん、と蔦子(つたこ)さんはつれない。  それに笑いながら、信太(しんた)は答えた。

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