902 / 928

30-40 トオル

 水煙(すいえん)真顔(まがお)車椅子(くるまいす)から言われ、信太(しんた)はゾッとしたようやった。  ゾッとする。寒いし。ゾッとするぐらい美しいんや、(おぼろ)は。  古来(こらい)幾人(いくたり)四条河原(しじょうがわら)でこの(おに)に食われてきたか、死屍累々(ししるいるい)(ほね)(つら)なり、もはや数えきれへんほどや。 「ほな帰るわ、信太(しんた)。さようならやな。お前にちゃんと(わか)れが言えて、よかったわ。寛太(かんた)(しあわ)せにな」  泣かすんは布団(ふとん)の中でだけにしろよと、兄さんは言い、なんでそうなるという(たく)みな素早(すばや)さで、信太(しんた)喉首(のどくび)(ふく)(つか)んで引き()せ、()()けの駄賃(だちん)のキスをした。  うぎゃああって、(とら)総毛立(そうげだ)っていた。  (わか)れたんちゃうの、お前ら。  なんでキスするの? お(わか)れのキスなの?  (とおる)ちゃんにはもう、よく分からないの、怜司(れいじ)兄さんの考えることが。  けっこうガッツリなディープキスをしてから、(おぼろ)河原(かわら)()()てるように、信太(しんた)(はな)した。  ほんまにコケそうなって、信太(しんた)はよろめいていた。 「美味(うま)! ここだけの話、キスはお前の方が美味(うま)いわ。お前を百として、暁彦(あきひこ)様は九十八やな。愛しちゃってるボーナスがあるから、結局(けっきょく)はお前の負けなんやけど」  またポケットに手を(もど)し、(おぼろ)は悪びれることなく笑顔で言うた。 「クソ! 何言うんや、今さら! 帰れ東洋鬼(トンヤンキ)! お前は(おに)や! 暁彦(あきひこ)様んとこ行って、もう二度と(もど)ってくるな」  信太(しんた)悪態(あくたい)ついて、帰れ帰れと(おぼろ)追い払(おいはら)うた。  (けむ)るような朧月(おぼろづき)の下、美しくも(あや)しい四条河原(しじょうがわら)(おに)(おぼろ)婉然(えんぜん)と手を()り、(まぼろし)のように消え去った。  たぶん、(おそ)なってしもたし、歩いて帰る()()しいなって、(いと)しい男のところへ飛んで帰ったんやろう。  それが信太(しんた)(おぼろ)(わか)れやった。  たぶんな。(わか)れたんやんな? 知らんでもう俺らは。  (おぼろ)のいない()()に帰り、俺とアキちゃんは信太(しんた)に付き()うて、しばらく飲んだ。  瑞季(みずき)水煙(すいえん)は、()るいうて()た。  満月(まんげつ)が近いんや。絵の人らも元気やもんな。  ああそうですか。()()ろ。  リビングには俺とアキちゃんと(とら)だけが残されて、アキちゃんは迂闊(うかつ)にも()てもうてた。  迂闊(うかつ)やのう、ほんまにお前は、まだまだ青い。おとんには(およ)ばない。俺をタイガーと二人っきりにして、よう平気(へいき)()るわ。  まあ平気(へいき)やけどな。(とおる)ちゃん、ええ子やし、タイガーつまみ食いはせえへんのや。ほんまほんま。  俺が毛布(もうふ)を取りに行って、(つか)れたんか、ホッとしたんか、すうすう()てるアキちゃんに着せかけてやり、部屋を見回したが、信太(しんた)がおらへんかった。  ベランダに月が見え、信太(しんた)がそこにおるんが見えた。  煙草(たばこ)()うてた。  うち禁煙(きんえん)やしな、アキちゃん(いや)がるし、今の今まで気を(つこ)うて()わんといてくれてたんやな。  お前は案外(あんがい)繊細(せんさい)(とら)や。  俺は酒瓶(さかびん)持って、ベランダに(とら)()っていった。  信太(しんた)はぼうっと煙草(たばこ)をくわえたまま、紹興酒(しょうこうしゅ)のグラス持って、月を見上げてた。 「何見てんのんタイガー」  ()ってた酒を()()してやって、俺もベランダの(さく)にもたれた。 「ああ、(とおる)ちゃんか。びっくりしたわ」  俺、足音せえへんもんな。びっくりした?  ふふふと笑って、俺も持ってきたグラスの酒を飲んだ。 「月見ててん。これがあいつの見たかった、京都の月かと思てな」  しんみり言うてる信太(しんた)はセンチメンタルな(とら)やった。  (わす)れた(わり)にはいろいろ(おぼ)えてんのやな、お前。  (わす)れては生きていけへん(おぼろ)なる思い出が、なんぼほどあるんや。  しかし俺は(とが)めんといてやった。  だって、俺にもあるもん。(わす)れがたい思い出が、それこそ星の数ほどある。  その遠い(きら)めきが、悲しい夜にも、俺を(ささ)えてくれるんやで。 「なんか(ちが)う? 神戸(こうべ)の月と」 「(ちが)うんやないか? 紫禁城(しきんじょう)の月とも(ちが)うもん」  一緒(いっしょ)に月を見て、俺も思った。  (ちが)うかもなあ。(たし)かに。  俺がユーフラテス川のほとりの高き峰(ジッグラト)から見た月も、グアテマラの月も、(みな)(ちが)って見えたわ。  ただ、同じなんは、(むね)()()けるような郷愁(きょうしゅう)が、そこにはあるということや。  (おぼろ)は月見て泣いてたん? 神戸でお前とおった時。  (みやこ)の月が(なつ)かしい言うて、(いと)しいお月さんのとこへ飛んで帰りたいて、あの(すずめ)ちゃん、お前を(こま)らせたか?  でももうあの人も今頃(いまごろ)は、あの白川(しらかわ)の家の月見台(つきみだい)で、(いと)しい男と(みやこ)の月明かりを()びてるよ。 「ええ顔してたわ、怜司(れいじ)」  それが少々()やまれるように、信太(しんた)は俺にゲロった。 「あいつの、ああいう笑顔、俺は初めて見たわ。あんな顔もできるんやな。ずうっと、あんなふうに、何の(うれ)いもない顔で、(しあわ)せやって笑っといてほしいて思うてたんやけど」  はあ、て無表情(むひょうじょう)煙草(たばこ)(けむり)()いて、信太(しんた)朧月(おぼろづき)にぼやいていた。 「あかんかったなあ、俺では」  ぼんやり言うてる信太(しんた)可哀想(かわいそう)やった。  (おぼろ)はほんま鬼畜生(おにちくしょう)やったな。 「でもキスはお前の方が美味(うま)いて」

ともだちにシェアしよう!