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30-40 トオル

 水煙(すいえん)に真顔(まがお)で車椅子(くるまいす)から言われ、信太(しんた)はゾッとしたようやった。  ゾッとする。寒いし。ゾッとするぐらい美しいんや、朧(おぼろ)は。  古来(こらい)、幾人(いくたり)が四条河原(しじょうがわら)でこの鬼(おに)に食われてきたか、死屍累々(ししるいるい)の骨(ほね)が連(つら)なり、もはや数えきれへんほどや。 「ほな帰るわ、信太(しんた)。さようならやな。お前にちゃんと別(わか)れが言えて、よかったわ。寛太(かんた)と幸(しあわ)せにな」  泣かすんは布団(ふとん)の中でだけにしろよと、兄さんは言い、なんでそうなるという巧(たく)みな素早(すばや)さで、信太(しんた)の喉首(のどくび)を服(ふく)掴(つか)んで引き寄(よ)せ、行(い)き掛(が)けの駄賃(だちん)のキスをした。  うぎゃああって、虎(とら)は総毛立(そうげだ)っていた。  別(わか)れたんちゃうの、お前ら。  なんでキスするの? お別(わか)れのキスなの?  亨(とおる)ちゃんにはもう、よく分からないの、怜司(れいじ)兄さんの考えることが。  けっこうガッツリなディープキスをしてから、朧(おぼろ)は河原(かわら)に打(う)ち捨(す)てるように、信太(しんた)を離(はな)した。  ほんまにコケそうなって、信太(しんた)はよろめいていた。 「美味(うま)! ここだけの話、キスはお前の方が美味(うま)いわ。お前を百として、暁彦(あきひこ)様は九十八やな。愛しちゃってるボーナスがあるから、結局(けっきょく)はお前の負けなんやけど」  またポケットに手を戻(もど)し、朧(おぼろ)は悪びれることなく笑顔で言うた。 「クソ! 何言うんや、今さら! 帰れ東洋鬼(トンヤンキ)! お前は鬼(おに)や! 暁彦(あきひこ)様んとこ行って、もう二度と戻(もど)ってくるな」  信太(しんた)は悪態(あくたい)ついて、帰れ帰れと朧(おぼろ)を追い払(おいはら)うた。  煙(けむ)るような朧月(おぼろづき)の下、美しくも妖(あや)しい四条河原(しじょうがわら)の鬼(おに)、朧(おぼろ)は婉然(えんぜん)と手を振(ふ)り、幻(まぼろし)のように消え去った。  たぶん、遅(おそ)なってしもたし、歩いて帰る間(ま)も惜(お)しいなって、愛(いと)しい男のところへ飛んで帰ったんやろう。  それが信太(しんた)と朧(おぼろ)の別(わか)れやった。  たぶんな。別(わか)れたんやんな? 知らんでもう俺らは。  朧(おぼろ)のいない我(わ)が家(や)に帰り、俺とアキちゃんは信太(しんた)に付き合(お)うて、しばらく飲んだ。  瑞季(みずき)と水煙(すいえん)は、寝(ね)るいうて寝(ね)た。  満月(まんげつ)が近いんや。絵の人らも元気やもんな。  ああそうですか。寝(ね)ろ寝(ね)ろ。  リビングには俺とアキちゃんと虎(とら)だけが残されて、アキちゃんは迂闊(うかつ)にも寝(ね)てもうてた。  迂闊(うかつ)やのう、ほんまにお前は、まだまだ青い。おとんには及(およ)ばない。俺をタイガーと二人っきりにして、よう平気(へいき)で寝(ね)るわ。  まあ平気(へいき)やけどな。亨(とおる)ちゃん、ええ子やし、タイガーつまみ食いはせえへんのや。ほんまほんま。  俺が毛布(もうふ)を取りに行って、疲(つか)れたんか、ホッとしたんか、すうすう寝(ね)てるアキちゃんに着せかけてやり、部屋を見回したが、信太(しんた)がおらへんかった。  ベランダに月が見え、信太(しんた)がそこにおるんが見えた。  煙草(たばこ)吸(す)うてた。  うち禁煙(きんえん)やしな、アキちゃん嫌(いや)がるし、今の今まで気を遣(つこ)うて吸(す)わんといてくれてたんやな。  お前は案外(あんがい)、繊細(せんさい)な虎(とら)や。  俺は酒瓶(さかびん)持って、ベランダに虎(とら)を追(お)っていった。  信太(しんた)はぼうっと煙草(たばこ)をくわえたまま、紹興酒(しょうこうしゅ)のグラス持って、月を見上げてた。 「何見てんのんタイガー」  減(へ)ってた酒を注(つ)ぎ足(た)してやって、俺もベランダの柵(さく)にもたれた。 「ああ、亨(とおる)ちゃんか。びっくりしたわ」  俺、足音せえへんもんな。びっくりした?  ふふふと笑って、俺も持ってきたグラスの酒を飲んだ。 「月見ててん。これがあいつの見たかった、京都の月かと思てな」  しんみり言うてる信太(しんた)はセンチメンタルな虎(とら)やった。  忘(わす)れた割(わり)にはいろいろ憶(おぼ)えてんのやな、お前。  忘(わす)れては生きていけへん朧(おぼろ)なる思い出が、なんぼほどあるんや。  しかし俺は咎(とが)めんといてやった。  だって、俺にもあるもん。忘(わす)れがたい思い出が、それこそ星の数ほどある。  その遠い煌(きら)めきが、悲しい夜にも、俺を支(ささ)えてくれるんやで。 「なんか違(ちが)う? 神戸(こうべ)の月と」 「違(ちが)うんやないか? 紫禁城(しきんじょう)の月とも違(ちが)うもん」  一緒(いっしょ)に月を見て、俺も思った。  違(ちが)うかもなあ。確(たし)かに。  俺がユーフラテス川のほとりの高き峰(ジッグラト)から見た月も、グアテマラの月も、皆(みな)、違(ちが)って見えたわ。  ただ、同じなんは、胸(むね)締(し)め付(つ)けるような郷愁(きょうしゅう)が、そこにはあるということや。  朧(おぼろ)は月見て泣いてたん? 神戸でお前とおった時。  京(みやこ)の月が懐(なつ)かしい言うて、愛(いと)しいお月さんのとこへ飛んで帰りたいて、あの雀(すずめ)ちゃん、お前を困(こま)らせたか?  でももうあの人も今頃(いまごろ)は、あの白川(しらかわ)の家の月見台(つきみだい)で、愛(いと)しい男と京(みやこ)の月明かりを浴(あ)びてるよ。 「ええ顔してたわ、怜司(れいじ)」  それが少々悔(く)やまれるように、信太(しんた)は俺にゲロった。 「あいつの、ああいう笑顔、俺は初めて見たわ。あんな顔もできるんやな。ずうっと、あんなふうに、何の憂(うれ)いもない顔で、幸(しあわ)せやって笑っといてほしいて思うてたんやけど」  はあ、て無表情(むひょうじょう)に煙草(たばこ)の煙(けむり)を吐(は)いて、信太(しんた)は朧月(おぼろづき)にぼやいていた。 「あかんかったなあ、俺では」  ぼんやり言うてる信太(しんた)が可哀想(かわいそう)やった。  朧(おぼろ)はほんま鬼畜生(おにちくしょう)やったな。 「でもキスはお前の方が美味(うま)いて」

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